最初の朝、台所でコーヒーを淹れる音に目が覚める。
「あれ? 起こしちゃった?」
「……ううん。夢じゃなかったんだな、って思ってただけ」
葵のエプロン姿に、胸がぽかぽかした。
何気ない一瞬が、すでに“幸せ”だと分かる。
洗濯物をたたみながら話すドラマの感想。
お互いの職場であった小さな出来事の報告。
眠る前に読む、隣で広げる本の話。
それら全部が、“ふたりだけの生活”を作っていった。
***
でも、楽しいだけじゃない。
仕事が忙しい日は、紗季が帰るのは夜10時を過ぎることもある。
疲れて帰ったある晩、葵がふとこぼした。
「最近、すれ違ってばっかりだね。なんか……顔、ちゃんと見てない気がする」
その声に、紗季は胸がちくりと痛んだ。
「ごめんね。毎日、葵と暮らすのが夢だったのに……現実はこうだね」
「夢じゃないよ。でも、現実だからこそ、大事にしたいって思っちゃうの」
「……うん。ちゃんと、帰ってくるから。
“おかえり”って言ってくれる人がいる場所に」
紗季は葵の手を握った。
部屋の灯りはあたたかく、
重なった手のぬくもりが、言葉よりも多くを伝えてくれていた。
***
ある日曜日、ふたりはインテリア店で、小さな木の表札を買った。
玄関の横に並んで書かれたふたりの名前。
まるで家族みたいで、恥ずかしくて、少し泣きたくなる。
「これが私たちの家だね」
「うん。“ただいま”と“おかえり”のある場所」
どこにも派手なドラマはない。
だけど、ふたりの時間は確かに、愛おしさで満ちていた。
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