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放課後。校舎の玄関を出ると、目の前には真っ白な雨のカーテンが広がっていた。
予報にはなかった夕立だ。
「……あちゃ。降ってきちゃった」
私はカバンを抱えて、わざとらしく困った顔で空を見上げる。
隣で同じように空を仰いでいた工くんが、「フッ」と不敵な笑みを浮かべてカバンから折りたたみ傘を取り出した。
「前原、予報を見てなかったのか? 次期エースたるもの、天候のチェックも怠らないんだぞ!」
「……えー。工くん、準備がいいね。かっこいいなぁ」
「だ、だろ!? ……ほら、貸してやるからこれ使えよ。俺は走って部活に行くから……」
そう言って傘を差し出そうとする彼の手を、私はそっと押し戻した。
「一人で帰るの、寂しいな。……工くん、一緒に入らせて?」
「えっ!? いっ、一緒……!? あ、相合傘っていうやつか!?」
工くんの顔が一瞬で「直角前髪」と同じくらいピンと強張る。
「だ、だめだ! 狭いし、お前が濡れるだろ!」なんて慌てているけれど、私は構わず彼の開いた傘の中に潜り込んだ。
「いいじゃん、ケチ。……ほら、行こ?」
狭い傘の下。
二人の距離は、教室の隣席よりもずっと近い。
一歩踏み出すたびに、二人の肩がしっかりとぶつかり合う。
「……工くん、左側、すごく濡れてるよ? もっとこっち寄って」
「なっ、濡れてない! これくらいエースの特訓だと思えば……」
「だーめ。風邪引いたら牛島さんに勝てないでしょ?」
私は彼の制服の袖をぐいっと引っ張って、自分の方へ引き寄せた。
密着した二人の体温が、雨の冷たさをかき消していく。
「……前原、近い。近すぎるぞ……」
「そう? 私は、ちょうどいいけどな」
見上げると、工くんは真っ直ぐ前を向いたまま、瞬きも忘れたように固まっている。
でも、傘を握る彼の手は、私に雨がかからないように少しだけ私の肩側に傾けられていた。
「……工くん、優しいね」
「う、うるさい! 早く歩け!」
怒鳴っているけれど、声が少し震えている。
雨音がアスファルトを叩く激しい音に紛れて、私の隣で、誰かの心臓がトクン、トクンと速いリズムを刻んでいるのが聞こえた。
それが彼のもので、そして――少しだけ、私のものでもあることを、私は気づかないふりをした。
赤点回避は、白鳥沢のエースへの必須条件。
……という名目で、私は放課後の図書室、一番奥の席に工くんを連れ出した。
「いい、工くん。このページの問題、あと半分だよ」
「う、うむ……。わかっている。……だが、前原、近いぞ」
仕切りのない大きな机。私はわざと椅子をごろごろと引き寄せ、彼のノートを覗き込む。
ペンを握る彼の手が、かすかに震えているのがわかる。
「集中できてないねぇ。バレーの時はあんなにすごいのに」
「バレーと数学は別だ! そもそも、お前がさっきから……っ」
「しーっ」
私は人差し指を自分の唇に当てて、彼の言葉を遮った。
図書室の静寂の中で、そのジェスチャーは妙に色っぽく響く(気がする)。
「工くん。……10分。あと10分だけ、一言も喋らずに集中できたら、いいことしてあげる」
「……! いいこと、とはなんだ!?」
工くんが鼻息荒く食いついてくる。声が大きい。
周りの生徒がちらりとこちらを見たので、私は彼の耳元に顔を近づけて、吐息が触れる距離で囁いた。
「内緒。……頑張ったら、教えてあげる」
「っ……!!」
工くんは顔面を真っ赤に染め上げ、猛烈な勢いで参考書に向かい始めた。
凄まじい集中力だ。鉛筆の走る音が、静かな空間にカリカリと心地よく響く。
(……本当に、真っ直ぐだなぁ)
横顔を眺めていると、長い睫毛や、真剣に結ばれた唇が嫌でも目に入る。
からかっているはずなのに、私の心臓が、少しだけうるさく脈打ち始めた。
――そして、約束の10分。
「……できた! 終わったぞ、前原!」
工くんが誇らしげに顔を上げた。
「お疲れ様。じゃあ、約束のご褒美ね」
私は椅子から少し身を乗り出し、彼の額に指先でパチン、とデコピンを落とした。
「……えっ?」
「はい、ご褒美。工くんの気合が入るおまじない」
クスッと笑って見せる
「おま……っ、デコピンじゃないか! ご褒美って、もっとこう……!」
期待外れだと抗議しようとした工くんに、私はさらに追い打ちをかける。
デコピンをした指先で、そのまま彼のおでこを優しく撫でた。
「……あ、でも。頑張ってる工くん、すごくかっこよかったよ」
不意打ちの、本音。
工くんは口を半開きにしたまま、今度は耳まで真っ赤になって固まった。
「……っ……、お前……、……ずるいだろ……っ」
顔を覆って机に突っ伏す工くん。
「いいこと」は、デコピンじゃなくて、私のこの「本音」だったのかもしれないね。
図書室の時計の針が、また少しだけ二人を追い越していった。
図書室を出て、夕暮れの廊下を歩く。
工くんはさっきから、自分の額(私がデコピンした場所)を右手で押さえたまま、一言も喋らない。
「……工くん? もしかして、デコピン痛かった?」
わざと心配そうな顔で覗き込むと、工くんは肩をビクッと跳ねさせて、ようやく私を振り返った。その顔は、まだ夕焼けのせいだけじゃない赤さに染まっている。
「い、痛くない! 全然痛くないぞ! エースの額は頑丈なんだ!」
「ふふ、強がりだなぁ。じゃあ、なんでずっとそこ触ってるの?」
「それは……っ」
工くんは言葉に詰まり、指先で前髪をぐしゃりとかき上げた。
「……前原が、変なこと言うからだろ! 『かっこいい』とか、そういうのは……もっと、こう……!」
「もっと、どう?」
私が一歩近づくと、彼は慌てて一歩下がる。
でも、その瞳はいつになく真剣で、真っ直ぐに私を射抜いていた。
「……俺は、お前にからかわれるのが嫌なんじゃない! ただ、お前が……その、他の奴にもあんなふうに笑ったり、触ったりしてないか、気になるんだ!」
「えっ……」
不意の、工くんからのストレートすぎる言葉。
私の喉が、一瞬でギュッと詰まった。
「お前は、いつも余裕そうだけど……っ。俺だって、ただ振り回されてるだけじゃないからな! 今度の練習試合、絶対見てろよ。……お前がからかうのを忘れるくらい、すごいスパイク決めてやるから!」
そう言い捨てて、彼は「じゃあな!」と猛烈な勢いで階段を駆け下りていった。
残されたのは、静かな廊下と、バクバクと騒がしい私の心臓。
「……やられた。」
指先に残る、彼のおでこの熱。
工くんの「逆襲」は、想像以上に破壊力があったみたいだ。