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「去年あたりからずっと、常務の椅子が空いていたことは知っていた?その間は、専務である兄が兼任していたようなんだけど、さすがに手一杯になってしまったみたいでね。ついに俺に白羽の矢が立ってしまったんだ。俺としては、その時の仕事も生活も気に入っていたから、その話を受けるつもりはなくてずっと断ってた。だけど」
拓真は宙を見つめながら続ける。
「さおりさんと偶然会って、君がこの会社で働いていることを知ってしまった。それで決めたんだ、父と兄を手伝うって。――これが、あの時言った『色々』の中身だよ」
私は息を詰めるようにしながら、彼の話に耳を傾け続ける。
「その時、一つだけ条件を出したんだ。常務に就任するのはいいけれど、数か月だけ、どういう形でもいいから一般社員として働きたいって。建前は会社の現状を知ること。裏の目的は、君に会って自分の気持ちにケリをつけること。いや、違うな。もしも可能性があるのなら君とよりを戻したい。そのための時間がほしい――それが本音だった。もちろん君に恋人がいて幸せでいるというのなら、その本音は胸の奥にしまったまま、今度こそ君への想いは捨てるつもりでいたんだ。だけど……」
拓真は言葉を切り、呆気にとられ言葉を失っている私に微笑んだ。
「碧は再び俺の恋人になってくれた。そしてこれが、話そうと思っていたことの全部だよ」
私はぱちぱちと何度か瞬きをしてから、自分の手元に目を落とした。
「……本当に、拓真君は常務なのね。そっか、部長って社長のご親戚だったものね。拓真君とも親戚なわけよね。だから、あの時の電話で『拓真です』って言ったのね」
拓真がそっと声をかける。不安そうな声だ。
「もしかして、じゃなくて、やっぱり引いてるよね……?」
「引いたというよりも、驚きの方が大きくて……。私がいたから転職したって聞いた時も驚いたのに、それが実は常務を引き受けることを決めた理由だったというのも……。ごめんなさい、やっぱりちょっと引いたかな」
私は困った顔をして小さく笑った。
拓真の肩が明らかにがくりと下がった。
「……そうだよな。でも、それだけ碧の存在は、俺にとって大きいってことなんだ。それは分かってほしい」
いつも自信満々でいるというわけではないけれど、私の反応を恐れるような拓真の姿を見るのは初めてかもしれない。そのことに気づいたら、胸の奥がくすぐったくなる思いがした。
拓真がおずおずと私を見る。
「今の話を聞いて、やっぱり俺と別れた方がいいかも、とか考えたりしてない?重すぎる、とか、俺が役員だから、とかの理由で」
こんな拓真は本当に珍しすぎる。そしてなんだかいつも以上に愛おしく感じる。私は彼の体に腕を回した。
「確かにちょっと、いえだいぶ重い気はするかな。だけど、私のことを愛してくれているのがすごくよく分かるし、大切にしてくれているのも分かっているから、別れたいなんて思っていないわ。ただ……」
私の言いたいことが何なのか察したのだろう。彼は私を抱き寄せて言った。
「今何を考えているか当ててみようか。きっと自分は俺に似つかわしくないんじゃないか、とか思っただろ?」
目を伏せる私に彼は「やっぱり」ともらし、苦笑する。
「秘書室に誘われたことのある人が何を言ってるんだ、って思うけどね。なんにしても」
不安に揺れる瞳を私に向けながら、拓真は言う。
「俺は君を離したくないよ。この先の俺の人生の中、傍にいてほしいと思う人は碧以外には考えられないから。だけど、そう思っているのは俺だけなのかな?」
私は彼の手を取った。
「私も同じ気持ちよ」
拓真は私の手をさらに包み込むように自分の手を重ねて、その指先にきゅっと力を込めた。
「改めて言わせてほしい。――碧」
「は、はい」
急に真剣な声で名前を呼ばれてどきりとする。
「俺と正式につき合ってください」
「あ、あの。正式に、とはどういう意味で……?」
思わず聞き返したら、彼は不満そうな顔をした。
「結婚を前提に、ってことに決まってるじゃないか。というか、昔もこんな感じのやり取りをした覚えがあるんだけど……」
彼の言う『昔』のやり取りを思い出せず、私は首を傾げた。
「そうだったかしら?」
「忘れてるんならいいんだよ。それで返事は?ちなみに、『はい』以外の返事は受け付けないからね」
「受け付けない、って何それ」
私はふふっと笑った。拗ねたような拓真の言い方を可愛いと思ってしまう。そして嬉しい。私は全身でその気持ちを伝えたくて、彼にぎゅっと抱きついた。
「よろしくお願いします」
彼からほっとしたような息遣いが伝わって来た。
「それじゃあ今度、いや、明日にも指輪を見に行こう」
「うん」
数年ぶりの再会がこんな幸せなものになるなんてと、不思議な気分になる。
「あのね、拓真君。本当にありがとう。私、一人でなんとかできると思ってたけど、結局は最後まで拓真君に助けてもらってばかりだったね。感謝してる」
「だってそれは……」
拓真の声が頭の上で響く。
「俺にとっては当然のことだったから」
「それでも、ありがとう」
私は彼の胸に顔を埋め、それからふと思い出す。
「そう言えば、私たちのことは、部長はもう知ってるのよね?」
「そうだね」
「他は、課長と斉藤さんも知ってるんだよね。来週出社した時、皆んなと顔を合わせるのがとても気まずいような……。拓真君とも会社で会うの、何となく恥ずかしいんだけど」
「俺はもうオープンにしてしまってもいいんだけどな。まだだめなの?」
「色んな意味で、まだ心の準備が……」
拓真は諦めたように笑う。
「仕方がない。それじゃあ、もう少しだけこのままでいるか。ところで、今後のことなんだけど」
「うん」
「部屋、どうする?」
「そうだよね。もう、戻っても大丈夫よね……」
そうだった、と改めて思い出す。拓真の部屋にいるのは、そもそもが避難の意味合いのものだった。その間に恋人同士ということになりはしたけれど、さらには、結婚を前提にしてつき合うことにもなりはしたけれど、それはそれ。けじめが必要だろうと思う。
「明日には戻ろうと思う。拓真君、これまでここに置いてくれて本当にありがとう」
笑顔で礼を口にはしたが、心の中は寂しさでいっぱいだった。それほど長い間のことではなかったが、拓真と一緒に過ごす時間はとても穏やかで心地よく、彼の甘やかしにどっぷりと浸りきっていたものだったからだ。この幸せな時間と空間に身を置くことができるのは、今度はいつになるのかと思うと切ない気持ちになる。
拓真が私の様子をうかがいつつ口を開いた。
「あのさ。俺たち、このまま一緒に住まない?」
私は弾かれたように勢いよく顔を上げた。
「俺としては当初の目的は達成したわけだから、もう役員席についても構わないと思ってる。兄の近くで教わった方が都合のいいことも、実はたくさんあるしね。そうなると、会社ではなかなか碧に会えなくなる。そして君が自分の部屋に戻ってしまったら、ますます顔を見る時間が減ってしまう。そんなのは寂しい」
拓真は私の頬を撫でながら続ける。
「俺たち、結婚前提につき合うことになったわけだし、このまま一緒に暮らせたら嬉しいんだけどな。碧との生活はとても心安らげるもので、幸せだった。だからこのまま傍にいてほしいんだ。そして頃合いを見て結婚しよう。碧はどう?やっぱり『けじめ』が必要だって言うのかな?」
最後の方の言葉にからかいの響きをにじませて、拓真は私に訊ねた。
彼の申し出が嬉しくてどきどきする。
「私だって拓真君と一緒の暮らしは、すごく安心感があって穏やかな気持ちでいられるものだった。だから、本当は私もね」
私はちらっと彼を見て言った。
「拓真君がいいって言うのなら、一緒に住みたい、毎日でも顔を見たい。そう思うの」
「それなら決まりだな」
拓真が私の顔を見つめる。
「碧、俺の傍にいてくれ」
彼に潤んだ瞳で見つめられて、胸がいっぱいになった。目の前の大切な人に腕を伸ばして抱きつく。
「嬉しい。ずっと傍にいるわ」
彼もまた私を抱き締めて、耳元で囁いた。
「愛してるよ、碧。今度こそ離さないからね」
彼の声の響きの中に微かな震えを感じたと思った途端、甘すぎるくらいに優しいキスが顔中に次々と降ってきた。
その一つ一つに込められた彼の想いを、私は幸せな気持ちで受け止める。ずいぶんと遠回りした末の恋の成就だったと、感慨深く思いながら――。
(了)