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逃げられた。
帰ったらちゃんと話そう、と言ったのに。
馨は、俺より三十分は早く会社を出たはずなのに、帰っていなかった。
逃亡先はすぐにわかった。
「馨の荷物を取りに来ました」
平内がインターホン越しに言った。
俺はドアを開けた。
「俺は馨を取りに行きたいんだけど」
「落ち着いたら取りに来てもらいます」
平内はなぜか、少し楽しそうに見えた。
俺は馨の部屋に案内し、コーヒーを淹れた。
荷物をまとめ終えた彼女は、当然のように椅子に座った。馨の場所。
「いただきます」
「話し合うつもりだったんだけど」
「みたいですね。けど、馨には気持ちを落ち着ける準備が必要みたいです」
「馨から聞いたのか?」
「これからです」
平内の落ち着き払った態度が、やけに気に障る。
「で? お前はなんでそんなに楽しそうなんだ?」
「そう見えますか?」
「だから、聞いてる」
ふふっと笑い、カップを置いた。
「馨、高津さんとは喧嘩したことがなかったんですよ」
「え?」
「驚きですよね。四年も付き合っていたのに、喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったんでって」
元彼とは四年もつきあっていたのか……。
「仲がいいって言えばそれまでですけど、それにしたって不思議だなと思ってたんです。馨は優しいから、我慢してるんじゃないかって心配だった時もあったし。だけど、馨が部長と喧嘩して帰りたくないって動揺するのを見て、ちょっと安心しました」
「親友の痴話喧嘩で安心するなよ」
「すみません。でも、元彼とはしなかった喧嘩をするくらい、部長には気を許してるってことでしょう?」
物は言いようだな。
馨にとって、俺は元彼以上だと言われたようで、少し嬉しくなる。
「そういうことなので、当分馨をお預かりします」
「ああ……」
「部長、一ついいことを教えてあげますから、いい子で待っていてください」
話を終えると、平内はコーヒーの礼を言って帰って行った。
俺は、今すぐに馨を迎えに行きたい気持ちを募らせるばかりだった。
馨と暮らし始めて二週間。
たった二週間なのに、この家に一人でいることが寂しい。
重症だな……。
『無理だよ、結婚なんて――』
眠れずにいると、馨の言葉を思い出した。
『本物じゃなくても、隠し事はイヤ』
『春日野さんも、黛ですら知っているのに』
やっぱ……両親のことだよな……。
他人の口から知る前に、ちゃんと話しておかなかったことを悔やみつつ、この期に及んでも知られたくなかったと思う。
知れば、馨は結婚を拒むだろう。
卑怯なのはわかっているが、出来るなら隠したまま結婚してしまいたかった。
そんなことをしたら両親も怒るだろうけれど、どうでもいい。
俺は両親の地盤を継いで国会議員になるつもりなんてない。
けれど、俺が実の親の跡を継がずに立波リゾートの社長になることを、馨は良しとしないだろう。
いくら俺の意思だと言っても、負い目を感じるはずだ。
そのうち、今日みたいに感情的になることもなくなってしまうんじゃないか。
『元彼とはしなかった喧嘩をするくらい、部長には気を許してるってことでしょう?』
平内の言葉を思い出し、思わずニヤける。
元彼は、あんな風にいじけたり怒ったりする馨を知らない……ってことだよな。
思えば、俺も女相手にあんなにムキになったことはなかった。
喧嘩になるほど踏み込んだ付き合いをしてこなかった。だから、くだらないことでいじける馨を可愛いと思う反面、煩わしいと思った。
それを見抜かれたんだろう。
まさか、結婚をやめるとまで言い出すとは……。
一時間以上、悶々と考えを巡らせた挙句、俺は馨の枕に顔を埋めて眠った。