「結葉は本当に可愛いね」
不意に吐息混じりに偉央からそう告げられて、結葉は手の中のパンを思わず取り落としそうになってしまった。
「……偉央、さん?」
恐る恐る手元から顔を上げて正面に座る偉央を見つめたら、心底愛しい者を見る目で見つめ返された。
偉央のことは怖いし、酷いことも沢山されてきたけれど、確かに自分はこの人に愛されているんだ、と胸の奥がズキッと疼いた結葉だ。
そうしてその痛みがときめきとは違うことに気が付いて切なくなる。
(私は偉央さんのこと――)
嫌いじゃないし、昔のように愛したいと思っている。
だけど――。
そう思う時点で、もう彼のことを〝愛せていない〟自分に気付かされてハッとした。
偉央の気持ちに報いることが出来ない自分が凄くダメな存在に思えて、思わず眉根を寄せて偉央を見つめてから、「あ、だからなんだ」と直感した結葉だ。
(偉央さんは、私の気持ちが自分から離れつつあることに気が付いていらっしゃる。……だからこそ、こんなにも私のことを力で支配しようとしておられるのね)
と。
きっと結葉が偉央を不安にさせないくらい彼のことを愛せたなら、今の関係を変えられる気がする。
でも――。
偉央が今みたいに自分を支配するのをやめてくれないと無理だ、とも思って。
それは相反する事柄だから、擦り合わせなんて出来っこないとも痛感してしまった。
***
結局結葉は偉央に促されるまま、スパークリングワインも飲んでしまって。
食事が終わる頃にはかなり酔いが回っていた。
かろうじて倒れずに済んでいたのは偉央に対する緊張感と、外食の場という雰囲気の相乗効果だったのだろう。
「結葉、大丈夫?」
食事を終えて席を立つ時、フラッとよろめいた結葉の腕を掴んで偉央が尋ねてきた。
「足が……。偉央、さ……、ごめ、なさ……」
〝足に力が入らなくて歩けそうにありません、ごめんなさい〟と言いたいのにうまく言えなくて、頭に霞がかかったようにぼんやりしている。
「謝らなくてもいいよ? 飲ませたのは僕だから。遠慮せず僕に掴まって?」
偉央に対する恐怖心がお酒のお陰で薄れていた結葉は、言われるままに偉央に身をゆだねて――。
「こんな風に結葉が甘えてくれるの、久しぶりだね」
耳元で偉央に小さな声でしみじみとつぶやかれた。
結葉は確かにそうかも、とふわふわとした意識の中で思って。
そのまま車までの道のりを偉央とともに歩く。
その道すがら、鼻先に冷たいものが落ちて、結葉は空から雪がちらちらと舞い落ちているのに気が付いた。
この降り方なら積もったりはしないだろうけれど、グッと冷え込んでいるのを感じる。
ブルッと身体を震わせながらも、偉央と触れ合った箇所の温もりを痛感して。
偉央が帰ってきたら伝えようと思っていたのに、ずっと言いそびれていたことを思い出した結葉だ。
「……あの、偉央さん。ハムスターの名前。……雪の日って書いて、雪日にしようかな、って思う、んですが」
本当はもっと早く伝えるつもりだったのに、言う機会を逸して言えなかったから。
偉央はそんな結葉に、「綺麗な名前だね」と返すと、妻を抱く腕にほんの少しだけ力をこめた――。
偉央の力を借りて助手席に座った結葉に、偉央がシートベルトを掛けてくれて。
車が元来た道を走り出して、車内が少しずつ温まり始める頃には結葉はうつらうつらと眠りの淵をさまよい始めていた。
そんな結葉に偉央が独り言のように言う。
「今日はね、結葉と僕の〝新しい生活〟の始まりを祝うためにあのレストランを予約したんだ」
(……新しい生活って何だろう? 雪日が来たから? でもそれだったら私たちふたりに言及するのは変、だよね?)
ぼんやりした頭でそう思った結葉だったけれど、眠気が強くて何ひとつ口に出す元気はなくて。
「寝ちゃったかな……」
結葉が反応しないからだろう。
偉央がそうつぶやいたのが聞こえて。
結葉は心の中で〝お返事出来なくてごめんなさい〟と謝った。
***
カーテンの隙間から差し込む光に目覚めると、見慣れた寝室の天井が見えて、結葉は気付かないうちに家に帰って来たんだと思って。
自分の足で車からこの部屋まで歩いた記憶がないことに一気に恥ずかしさが込み上げる。
二十四時間体制でコンシェルジュが常駐しているマンションだ。
もしも偉央に抱き抱えられてエントランスを抜けたんだとしたら、物凄く目立ったはずだ。
(やだ、恥ずかしい……)
いくら久々にお酒を飲んだからといっても、大失態にも程がある。
(偉央さんにもちゃんとごめんなさいをしなくちゃ)
「……偉央、さん?」
そう思いながら夫の名を呼んで自分の横を見たけれど、既に偉央の姿はベッドの上にはなかった。
時計を見ると七時をさしていて。
結葉は朝の支度をしなければ!と慌てて身体を起こした。
「――っ!」
途端ズキンと頭に痛みが走って、ついでのように胃の奥がムカムカして気持ち悪いことに気が付いた。
(二日酔い……?)
あんなに飲んだのだから、なっていても不思議ではない。
ますます最悪だ、と思いながらも痛む頭を押さえてベッドから足を下ろして。
そこで結葉は「え?」とつぶやいた。
足首に感じる違和感は二日酔いのせいだろうか?
視線を転じた先、左足に銀色の輪が嵌められていて、そこからキラキラと光を跳ね返す鎖が長々と続いているのが見えた。
まるで小型犬につけるお洒落な鎖みたいだな、と思ってから、それが自分の足首とどこかを繋いでいるのだと自覚した結葉は、瞳を見開いた。
「え……? 何、これ……?」
状況が飲み込めなくて固まる結葉に、寝室の扉が開いて偉央の穏やかな声が掛かる。
「おはよう、結葉。僕からのプレゼントは気に入ってくれたかな?」
コメント
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え?拘束?監禁して外に出られないようにしたの?😱