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昼休み。屋上のドアが、わずかに軋んだ音を立てて閉まる。
風が強く、灰色の空はどこまでも遠かった。
フェンスの向こうでは、校庭の声がうっすらと混じり合いながら消えていく。
遥は、背中をフェンスに預けるように立っていた。
その背中は、まるで“そこから落ちたがっている”ように、どこか危うかった。
やがて、ドアが再び開いた。
足音を忍ばせながら、日下部がゆっくり近づいてくる。
ふたりの間に言葉はなかった。
ただ、空っぽの昼の屋上と、どこにも行き場のない視線だけがあった。
しばらくして、遥が小さく笑った。
「……おまえ、ヒマなの?」
日下部は答えず、すぐ隣には立たなかった。
数歩分の間をあけて、同じフェンスにもたれるように腰を落とした。
「ここ、来ると落ち着くんだ」
遥の横顔が、ちらと揺れた。
笑ったのか、呆れたのか、自分でもよく分からない。
「俺は……別に。落ち着くとか、ねぇけど」
嘘だった。
この“何もされない空気”は、たしかに心のどこかを緩めた。
けれど、それが一番怖い。
気を抜けば、日下部の言葉や呼吸にすら、“期待”しそうになる。
そんな自分が、いちばん気持ち悪い。
「……なんかさ」
遥は、自分のスニーカーのつま先をじっと見ながら言った。
「“優しくされる”って……壊されるよりキツくね?」
日下部は、少し目を細めた。
「なんで?」
「だってさ。壊されたら、どうせ俺が悪いって思えるじゃん。……でも優しくされたら、“俺にも価値があるかも”って、一瞬だけ錯覚するんだよ」
遥の声が、風に紛れて薄く揺れた。
「で、次の瞬間に思い知る。“そんなわけない”って。……だから、落ち着かない。怖ぇんだよ」
心が解けるほど、自己嫌悪が強くなる。
欲しくなるほど、日下部を汚したくなる。
守られるほど、「壊されたい衝動」が強くなる。
遥は、それを知っている。
それでも、ここに立ってしまった。
「だから……さ。ほんとは、おまえにも……ムカついてほしい」
「……ムカついたら、安心できるのか?」
「知らねぇよ」
吐き捨てるような声。
「でも……このままだと、俺……また、誰かに抱かれたくなる」
日下部の指先が、フェンスをかすかに揺らす音がした。
遥は、それを聞きながら、乾いた喉で笑った。
「……“綺麗なまま”の人間ってさ、すげー簡単に壊れるんだよ。俺、知ってる。何人も、そういうの、壊した」
「……じゃあ、俺も壊れるか?」
その問いかけは、優しさでも挑発でもなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
遥は返さなかった。
答えたら、全部壊れる気がした。
ほんのわずか、日下部の方を向いた遥の目が、
言葉よりもずっと強く、「見ないでくれ」と告げていた。
そのくせ、「ここにいてくれ」とも訴えていた。
──誰よりも、ねじれていた。
その一歩が遠いと知りながら、日下部は静かに、少しだけ近づいた。
ふたりの間を、冷たい風が通り抜ける。
それでも、その屋上の空気には、
遥が今、“壊されるか壊さないか”の綱渡りに立っていることが、
日下部にだけは、痛いほど伝わっていた。