テラーノベル
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風が鳴っていた。吹き抜ける空気が、校舎の壁に擦れて軋んだ音を立てている。
屋上の隅。人のいない、誰にも見られない時間。
それだけで、ほんの少し、呼吸がしやすくなる。
──けれど。
横に立つ日下部の気配が、肌に触れるほど近い。
沈黙している。何もしてこない。ただ“そこにいる”。
そのことが、息苦しかった。
(……なんで、逃げねぇんだよ)
いっそ殴ってくれたらよかった。
「気持ち悪い」とでも、「うざい」とでも言ってくれたら──
どれほど楽だったか、と思う。
「……バカじゃねえの」
小さく吐いたのは、自分に対してか、隣のその男にか、自分でもよく分からなかった。
(俺のことなんか、見んじゃねぇよ)
心の中で何度繰り返しても、声に出せなかった。
そんな権利すら、自分にはもうない気がしていた。
日下部の沈黙は、優しさじゃなかった。
それは、遥にとって“拷問”だった。
暴力よりも、暴言よりも、ずっと優しい“無言の肯定”が、
遥の防壁を削り落としていく。
(……あの家じゃ、こんな静けさ、許されなかった)
思い出す。
隣の部屋から聞こえてくる、晃司の足音。
沙耶香の爪が首に立てられたときの、金属みたいな冷たさ。
夜中にこっそり閉めたはずのドアが、颯馬の手で無理やり開けられるときの音。
──全部、今も耳に残ってる。
そして、日下部の部屋で過ごした“あの一週間”も。
何もされなかった、ただ「置かれていた」だけの時間。
あの地獄の静寂も。
(……俺は、黙ってる誰かが一番、こわい)
だからこそ、目の前の日下部の無言が、
優しいくせに、一番残酷だった。
「なあ……おまえ、わかってんの?」
ふと、口が動いていた。
「……俺、おまえに優しくされると、壊れたくなんだよ」
自分でも何を言ってるのか分からない。
でも、それは確かに今の“自分”だった。
「安心なんて、してねぇよ。安心した瞬間に──全部、ぶっ壊したくなる」
日下部は黙っていた。
それがまた、遥を追いつめる。
「俺、もうわかんねぇんだよ」
喉が熱くなって、言葉がどんどん崩れていく。
「逃げたくて泣いてんのか……助けてほしくて泣いてんのか、ただ壊れてぇだけなのか……」
「──わかんねぇんだよ」
やっとのことで、そこまで言って、息が詰まった。
日下部は、何も言わない。
それが遥には、もう“答え”にしか思えなかった。
誰にも求められていない。
優しさは錯覚で、自分の願いなんか、ただの自己中で。
全部、自分の妄想だった。
自分が、汚れてて、壊れてて、
それを他人の優しさで隠そうとすること自体、どこまでも醜い。
(だから──)
「おまえもさ、壊せよ」
そう言いかけて、唇を噛んだ。
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
その一言を言ってしまったら、
たぶんもう、戻れなくなると思ったから。
けれど、日下部は静かに──まるで、それすらも受け入れるようにそこにいた。
それが、いちばんつらかった。
(お願いだから、黙ってないで)
声にならない懇願が、心の底で叫び続けていた。
──この屋上の時間が、終わるまでに。
遥の中で、何かが崩れきる前に。
誰かが、止めてくれなければ。
きっと、自分で自分を壊してしまう。
そんな確信だけが、胸にひどく冷たく沈んでいた。
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