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厳しすぎるグレイアスに気づかれないように細心の注意を払いつつ、ノアは壁時計をチラ見する。
時刻はもう夕方過ぎだ。あと針が一周したら、嬉し、楽し、ディナータイムである。
ノアがここに来たのは、昼過ぎにアシェルとお茶を飲んだ後すぐ。それからほぼ休憩なしで魔法文字の授業を受けている。
これを拷問と言わずになんと言おう。きっと自分がそう思っているんだから、出来損ないの生徒に長時間付き合っているグレイアスは、もっと地獄なはずだ。
互いが苦痛を覚え、互いに得るものが無い時間は、とっとと終わりにすべきだ。
そしてグレイアスは魔法に限界があるのを知っているのだから、諦めることをいい加減覚えてほしい。
そんな都合のいい主張を心の中で訴えているノアは、別に勉強嫌いというわけでも、頭の出来が恐ろしく悪いというわけではない。
修道院で読み書きや計算を学んだ時は、出来の良い部類に属していたし、鬼ババアと陰で呼ばれているロキから誉められることだってあった。
だからといって、今、落ちこぼれ街道まっしぐらなのは、別にグレイアスを舐めているわけでもない。
ただ単に「ねえ、これ覚える必要ある?」という疑問が邪魔して身に入らないだけだ。
「……せめて、これが次の就職に役立つなら」
「ノア様、今、なんとおっしゃいました?」
ぐりぐりとレポート用紙に円を書きながらポツリと呟けば、運悪くグレイアスの耳に届いてしまった。
「いえ、何も?強いて言うなら、今日のディナーにキノコは出るかなと言ったような、言わないような……うん。言いました!」
「あなたが言ったのは、別の言葉でしょう」
スパッと言葉のナイフで切り捨てられたノアは、もう笑って誤魔化すことしかできなかった。
しかしこのグレイアス、柔軟さを求められる魔術師だというのに堅物だ。
「良いですか、ここがわたくしの部屋だったから大事にはなりませんでしたが、これが他の場所でしたら笑い事では済まされませんよ。うっかりの一言で首が飛ぶのですから、言動には重々注意してください。───そうしないと、またあなた様に私は声封じの魔法をかけなければならないです」
最後は、ドスが効いていた。
ノアは「そんな殺生な!」という言葉を飲み込んで、唇を引き結ぶと、こくこくと何度もうなずいた。
魔術師グレイアスことグレイアス・リクファーレは、名門侯爵家の三男坊でありアシェルの幼なじみ兼親友兼ノアの教育係である。
そんな彼は、濡れたような艶のある黒髪の少々小柄な青年だ。そして濃紺の瞳を持ち、高い魔力を誇示するようにいつもその眼の奥に紫色の光を散らしている。
年中ローブ姿は大層神秘的で、顔も整っているから年上の女性に受けがいい。
ちみにグレイアスは、仮初め婚約の発案者であり、協力者であり、バレたら極刑要員で──アシェルのことはノアよりも100倍知っていて、アシェルの為なら汚れ仕事でもあっさり引き受けちゃうお方である。
「ノア様、人前で失言しないと約束するなら、今は、そんなことをしなくてもいいです」
「はぁー……ぃ」
二度あることは、三度ある。
そんな予感がして、ノアは返事が尻すぼみになってしまう。
もちろん失言なんか、しないつもりだ。
生まれた途端に捨てられたノアは、死ぬときは絶対に他人の手に委ねるもんかと決めているし、最後はキノコをたらふく食べてから、ベッドの上で死ぬと決めている。
だから首を跳ねられて死ぬというのは、人生プランに含まれていない。毒キノコを食して死ぬというのは、まぁ……あると思うし、そしてそれなら本望だ。
と、まだ見ぬキノコにちょっと思考が移りかけていたノアは、ここで名案を思い付く。
「私が”この婚約はお仕事です”的なことだけ言わないようにする魔法ってないんですか?」
「ないですね。というか、そんな魔法を都合の良いものだと思わないでください」
ぞっとするほど冷たい目をグレイアスから向けられ、ノアは二度とこの提案を口にしないと心に刻んだ。
そんなノアを見て、グレイアスは長い長いため息を吐いた。
「……それにしても、あなたは3ヶ月経ったというのに、まだそんなことを思ってるんですか?」
「ん?」
眉間をモミモミしながらそう言ったグレイアスの質問の意味がわからず、ノアは首をかしげた。
「”そんなこと”とは、どんなことですか?」
守秘義務を絶対に守ると宣言できないこと……だろうか。
それとも、毎日授業を受けているのに、一向に魔法なるものを理解しないところだろうか。
他にも、思い当たることは色々ある。
ここを去るとき高級キノコを土産にもらえないだろうかとか、小柄なグレイアスは、実はシークレットブーツを履いているという噂は本当なのだろうかとか。
今、ジト目で睨んでいるのは、希代の魔術師だ。もしかして、こちらの思考を魔法で読んでいるのかもしれない。
なら、後で長々と説教混じりの嫌味を聞くくらいなら、もう口に出した方が良いのかもしれない。
そう思ったノアは、ぐっと拳を握るとグレイアスに向け口を開いた。
「ごめんなさい、とぼけてみましたっ。本当は言われなくても、わかっています!私、ずっとグレイアスさんのブーツの上げ底が、どれくらいの高さか知りたいって思っていました!!」
勇気をかき集めて白状した瞬間、グレイアスはローブをぶわっとはためかせて立ち上がると、今まで聞いたことの無い声量で叫んだ。
「俺は、上げ底なんかしていない!!!!」
ずっと抱えていた疑問は解消できたが、その代価としてグレイアスの逆鱗に触れてしまった。
嬉し、楽し、ディナータイムが、駆け足で逃げていくのが、はっきりと見えてしまった。