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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
合同研究会への対応を橘と詰める一方で、病院では通常の診療を続けた。
家庭の問題が膨らんでも、検査を待つ患者の時間は止まらない。
ある日の夕方、胎児心臓の精密検査を終え、慧と画像を確認した。
患者は、他院で胎児心疾患の可能性を指摘された夫婦。
夫は検査開始から画面を凝視し、妻は目を閉じたまま腹部へ手を置いている。
慧は必要な断面を一つずつ記録し、曖昧な部分を無理に断定しなかった。
「今の段階で、重い病気なんですか」
夫に尋ねられても、技師の立場を越えて答えない。
「画像を揃えたあと、高瀬医師から説明します」
検査後、私は夫婦を診察室へ案内した。
現時点で疑われる所見。出生後に必要となる可能性のある検査。今すぐ決めなくていいことと、次回までに考えてほしいこと。
妻が震える声で尋ねた。
「私が妊娠中に何かしたからですか」
「今見えている所見は、あなたが仕事を続けたことや、食べた物のせいではありません」
「でも、もっと早く休んでいれば」
「自分にできた別の選択を探したくなる気持ちは分かります。ただ、今必要なのは原因を自分へ作ることではなく、赤ちゃんの状態を確認して準備することです」
説明しながら、その言葉がそのまま自分へ返ってきた。
患者には、あなたのせいではないと言える。
なのに自分のことになると、もっと家にいれば、もっと遼介へ頼ればと、別の選択をした私ばかり探してしまう。
診察後、慧が追加画像を持ってきた。
「説明中、顔色が変わりました」
「患者さんの言葉が、自分にも当てはまっただけです」
「診療へ影響は?」
「ありません。説明は必要な範囲で終えました」
「なら、今は聞きません」
以前なら、感情を持ち込むなと切り込んだかもしれない。
今は、診療へ影響したかを確認し、影響がないなら私の私生活へ踏み込まない。
「榊原さん、最初に会った頃より、少し言い方が変わりましたね」
「患者の前で同僚を追い詰めるのは、患者の利益にならないと学びました」
「私から?」
「高瀬先生に腹が立ったことと、僕の言い方が適切だったことも別です」
私が何度も使うようになった言葉を、慧も使った。
「自分の非を認めるの、嫌ではないんですか」
「嫌です」
「嫌なんですね」
「間違いを認めることが好きな人はいないでしょう。でも、嫌だから変えないという選択はしません」
慧だって間違える。最初から何もかも正しい人ではない。
遼介と違うのは、間違えた時に、相手が怒ったから仕方なかったとは言わないことだ。
自分のしたことを、自分のものとして引き受ける。その姿が、今の私には眩しかった。
その姿勢を見ているうちに、慧の厳しい言葉が、支配ではなく患者へ向けられたものだと分かるようになった。
「流出路の断面、保存されていますか」
「三方向あります」
「二枚目を報告書へ」
「分かりました」
仕事のやり取りが終わってから、私は改めて頭を下げた。
「橘先生へ正式に依頼しました。病院の件も確認してもらっています」
「そうですか」
「紹介してくれて、ありがとうございました」
「連絡先を渡しただけです」
「それでも、一人では辿り着けなかった」
端末を閉じた。
「決めて、連絡して、依頼したのは先生です」
「どうして、そこまで私が自分で決めたことにしたがるんですか」
「僕が決めたことにすると、次も僕の許可が必要になるからです」
遼介とは、まるで反対の答えだった。
助けたのだから自分に従えではなく、次も自分で選べるようにする。
そんなふうに考える人がいることを、私は知らなかった。
私は以前から抱いていた疑問を口にした。
「どうして、ここまでしてくれるんですか」
「同僚だからです」
「同僚全員へ弁護士を紹介しますか」
返事はない。
検査室には、空調と機器の低い音だけが残る。
「以前から、先生を尊敬していました」
「以前から?」
「僕が海外から戻った時、医師の指示をそのまま通さず、技師や助産師の所見も確認していた。患者へ都合の悪い可能性を隠さず、それでも必要以上に不安を煽らない。この病院で、最も仕事をしやすい医師でした」
「その割に、会うたび厳しかったですね」
「尊敬している人が、自分で守ってきた基準を下回れば腹も立ちます」
「勝手ですね」
「はい」
視線は私から外れなかった。
「医師として尊敬しています。女性としても、好きです」
言葉の意味が胸へ届くまで、数秒かかった。
「なぜ今、言うんですか」
「先生が、ご主人の評価だけで自分の価値を決めようとしているからです」
「慰め?」
「違います。慰めなら、好きだとは言いません。断られると分かっていても、僕の好意は事実なので伝えました」
「弁護士を紹介したのも、離婚させたかったから?」
「先生が離婚しなくても紹介しました」
「私が遼介の元へ戻ったら?」
「仕事では今までどおり接します。個人的には距離を置きます」
「怒らないんですか」
「僕が好きなことと、先生が僕を選ぶことは別です」
遼介は、愛しているから妻でいろと言った。
慧は、自分が傷ついても、選択を私へ返した。
「私は、今その気持ちを受け取れません」
「はい」
「まだ結婚しています。夫への怒りや、逃げたい気持ちと区別できない。あなたへ頼れば、また誰かを基準に人生を決めることになる」
「分かりました」
「傷つきませんか」
「傷つきます。でも、傷ついたことを理由に、先生へ譲歩を求めるつもりはありません」
私は息を吐いた。
「一つだけ、謝ってください」
「何をですか」
「最初の検査で、患者の前で私を責めたこと」
慧の眉が僅かに動いた。
「あれは僕の誤りです。交代を求める必要はありましたが、患者の不安を増やす言い方をするべきではなかった。申し訳ありません」
「判断そのものは謝らないんですね」
「患者の安全に関わるので」
「本当に可愛くない」
「好かれるために働いていません」
思わず、少し笑った。
慧の口元も僅かに緩む。
「次の患者が来ます。今の話は、離婚が成立するまで持ち出しません」
「成立したら?」
「先生が望まない限り、僕から返事を迫りません」
その言葉どおり、次の患者が入ると、慧は検査へ集中した。
胎児の向きを待ち、必要な断面を記録する。私は医師として所見を確認する。先ほどの告白を、患者の時間へ持ち込まない。
検査後、問い掛けられた。
「今後、僕と組むことで診療へ影響が出ますか」
「出ません」
「なら、仕事はこれまでどおりです」
「断ったことで、協力をやめることは?」
「仕事上必要なことはします。橘は既に先生の代理人なので、僕が口を出す余地もありません」
断ったから仕事で困らせることはしない。
慧はそれを、言葉だけではなく態度で確認してくれた。
好意を貸し借りにしない。その距離が、今はありがたかった。
検査室を出ると、胸の中へ小さな温度が残った。
慧に好かれたから、急に傷が癒えたわけではない。
それでも、私の強さも仕事も嫌がらず、そこを好きだと言う人がいる。
遼介に『息苦しい』と言われた部分を、別の人は尊敬してくれた。
そのことが、冷え切っていた胸の奥へ小さな熱を残した。
廊下を曲がったところで、言い争う声が聞こえた。
沙耶と遼介の声。
「真帆さんの子も、莉央さんの子も産ませるのに、どうして私の子だけ駄目だったの」
「声を落とせ」
「七年間、次は産ませるって約束した」
「あの時とは状況が違う」
「私は一人で手術を受けたのよ」
「同意したのは君だ」
沙耶が鞄から古い母子手帳を取り出した。
「同意した? 産んだら二度と会わない、医局にもいられなくすると言われて、選べると思ったの?」
「脅したつもりはない」
「手術の日、あなたがどこにいたか覚えてる?」
「七年前のことだ」
「千紘先生との食事よ」
足が止まった。
沙耶が私に気づく。
母子手帳から、小さな超音波写真が床へ落ちた。
日付は、遼介と私が初めて二人で食事をした日の数日前だった。
「先生、知っていますか。遼介先生が、私へ中絶を求めた直後にあなたへ近づいた理由」
沙耶は写真を拾わず、私を見た。
「沙耶、やめろ」
「久世記念病院を継ぐために、医師の妻が必要だったからです」
遼介の顔から血の気が引いた。
「千紘、違う。最初は父親へ認めさせるためだったとしても、途中から本当に――」
「最初は?」
彼は自分で、私へ近づいた時点に目的があったと認めた。
胃の奥が冷え、指先から体温が抜けていく。私たちの最初の食事さえ、遼介にとっては病院を継ぐための準備だったのかもしれない。
あとから本当に愛情が生まれたとしても、最初に目的を隠して近づいた事実は消えない。
慧の言葉で少しだけ温まった胸の奥が、また一気に冷えた。
信じたかった思い出が、音もなく別の形へ変わっていった。
コメント
1件
慧くん、ついに言っちゃったね……! でも「好きだけど選ぶのはあなた」っていう距離感が本当に慧くんらしくて、胸が締め付けられるほど良かったです。千紘先生が「今は受け取れない」と自分の気持ちをしっかり言葉にしたのも、彼女の成長を感じて泣けました。そしてラストの沙耶さんの真実……全ての温かいシーンが音もなく色を変えていく感じ、ゾッとするほど切なかったです。次が気になりすぎます。