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#短編集
chocomacaron
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ゆゆ
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その星の夜は、息が詰まるほどに冷たく、そしてどこまでも重厚だった。天空を覆うのは、紫色に淀んだ分厚い雲。その隙間から、玄界では決して見ることのできない、禍々しいほどに巨大な無数の星々が、まるで剥き出しの眼球のように怪しく瞬いている。
神の国_アフトクラトル。四大領主の一角であるベルティストン家が統治する城塞都市の最上層には、幾星霜もの年月を生き抜いてきた堅牢な石造りの謁見の間が、静まり返った闇の中にそびえ立っていた。
「……信じがたいな。玄界の精鋭部隊の主力でありながら、自ら遠征艇の防衛コードを改ざんし、我が軍の門を叩いたとは」
冷徹な、大気を震わせるような声が玉座から響く。声を放ったのは、現神の国の実質的な最高権力者、ハイレイン。その頭部からは、神の国の王属たる証_トリオン能力を異常なまでに拡張する寄生型トリガー『角』が、恐ろしいほどに黒く、鋭く生え伸びていた。ハイレインの纏う白銀の甲冑が、室内の微かな松明の光を浴びて鈍く輝き、その威圧感だけで常人ならば息をすることさえ忘れるほどの重圧を放っている。
「ハイレイン。やはり何かの罠ではないですか。玄界の猿どもが、これほど用意周到に身内を送り込んでくるとは思えません。こいつの戦闘体をここで一度破壊し、記憶を吸い上げるべきです」
ハイレインの傍らに影のように佇む女性_ミラが、冷酷な瞳で眼下の青年を睨み据えた。彼女の指先では、黒トリガー『窓の影』の結晶体が、チカチカと不気味な光を放ちながら弄ばれている。彼女がその手を一振りすれば、空間が歪み、青年の首は一瞬にして刎ね飛ばされるだろう。この世界には、ボーダーの誇る緊急脱出などという甘生易しい安全装置は存在しない。ここで戦闘体を壊されれば、生身が剥き出しになり、そのまま”本当の死”へと直結する。そんな、針のむしろのような殺気の中に立たされながらも、犬飼澄晴は、いつものように軽いトーンで、ぽつりと呟いた。
「_んー、やっぱりこっちの星は天井が高くていいねぇ。ボーダーの作戦室ってさ、なんかこう、規律とかルールとかがギチギチに詰まってて、窮屈だったんだよね」
犬飼は、周囲を完全に包囲しているアフトクラトルの角付きの精鋭兵たちを意に介する風もなく、のんびりと首を回した。彼の纏う黒いスーツのネクタイは、いつも通り少しだけ緩められている。命の危機に瀕している人間のそれではない。まるで、退屈な放課後に新しいゲームセンターへふらりと立ち寄った高校生のような、絶対的な緊張感の欠如がそこにあった。
「貴様、我が主の前だぞ。不敬な態度を慎め」
大剣を携えた巨漢の将_ランバネインが、地鳴りのような声で威嚇する。その咆哮だけで大気がビリビリと震えたが、犬飼はただ
「おっと、声が大きいねぇ」
と、おどけたように肩をすくめるだけだった。
「罠なんて、そんな面倒なことおれがすると思う?」
犬飼は前髪の隙間から、ハイレインの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その笑みは完璧であり、だからこそ、何一つ本心を映し出さない無色の虚無に満ちていた。
「二宮さんの作戦通りに動くの、本当に飽きちゃったんだよね。あっちの世界はさ、みんな真面目で、優しくて、正しくて……お行儀が良すぎるんだよ。死なないように、誰も傷つかないように、完璧なチェス盤の上で、決まった通りに決まった駒を動かすだけ。……ねぇ、ハイレインさん。神の国のチェス盤は、もっとめちゃくちゃで面白いって聞いたから、おれ、わざわざお引越ししてきたんだけど」
犬飼澄晴という人間は、生まれてからずっと、何でも器用にこなせてしまう子供だった。
少しコツを掴めば、勉強も、スポーツも、ボーダーの戦術も、すべて人並み以上にできてしまった。努力の天才である二宮のように執念を燃やす必要もなければ、辻󠄀のように必死にしがみつく必要もなかった。だからこそ、犬飼にとって世界はいつも、最初から答えが分かっている「退屈なゲーム」だった。どれだけ勝っても、どれだけ称賛されても、彼の心が本当の意味で満たされたことは一度もない。いつも、どこか醒めた目で盤面を見つめていた。
そんな彼の前に、かつて、鳩原未来という”欠陥品”が現れた。人が撃てず、いつも泣きそうな冴えない顔をして、二宮の完璧な戦術の足手まといになっていた、出来損ないの駒。それなのに_あいつは、犬飼がどれだけ器用に立ち回っても届かなかった”世界の果て”へ、自分のすべてを投げ打って、一番最初に飛び出していったのだ。
あの日、残された隊室で、犬飼が心の底から感じていた感情。それは、悲しみでもなければ、怒りでもなかった。狂おしいほどの「嫉妬」だった。
なんであんな不器用な人が、あんなに満たされた顔をして消えちゃうわけ?
自分だけが、何一つ欲しいものを見つけられず、完璧な人形のように笑い続けていることへの、強烈な飢餓感。
「だからさ、おれは鳩原ちゃんの跡を追ってきたんだ。あの人がすべてを捨ててまで見に来たかった景色の中に、おれの退屈を紛らわせる『何か』があるんじゃないかってね」
感情の起伏が一切ない、冷たい告白。復讐心があるわけでも、大義名分があるわけでもない。ただ、自分の空っぽな心を埋めるための「刺激」だけを求めて、国を、仲間を、すべてを平然と捨ててみせた男。ハイレインはその瞳の奥にある「本物の狂気」を、静かに見据えていた。この男には、玄界への未練も、命への執着すらもない。だからこそ、最も残酷で、最も忠実な”使い捨ての駒”になり得る。
「……面白い男だ。だが、お前が本当に我が国の駒として機能するかどうかは、その腕で証明してもらう」
ハイレインがゆっくりと手を挙げると、ミラが不快そうに唇を歪め、指先を動かした。空間が裂け、犬飼の足元へ、ゴツリと重々しい音を立てて一挺の銃が投げ落とされた。それは、ボーダーの洗練された白いトリガーとは一線を画す、アフトクラトルの最新技術で作られた起動体だった。結晶化した黒いトリオン鋼で覆われ、銃身からは、個人のトリオンを強制的に歪曲させて放つ、禍々しい紫色の光が静かに漏れ出している。
「明日、我が領地と対立する他の領主の私兵部隊との局地戦がある。お前には、その最前線に立ってもらう」
ハイレインの声が、冷酷に謁見の間を支配する。
「言っておくが、我が国の戦場に敗者蘇生などという甘えはない。戦闘体が壊されれば、お前はそこで終わりだ。肉体が消滅し、その命を失う。……その覚悟があるな?」
犬飼は、足元に転がった不気味な黒い銃を、ゆっくりと拾い上げた。手に入れた新しい玩具。その冷たい感触が、彼のトリオンと結びついた瞬間、銃身の紫色の光が一層強く明滅した。彼は、その銃を愛おしそうに撫でながら、ふっと、これまでで最も深く、心からの喜びを湛えた笑顔を浮かべた。その笑顔は完璧に美しく、そして完全に狂っていた。
「へぇ、緊急脱出無し、か。一発貰ったら、本当に死んじゃうんだね」
前髪の隙間から覗くその目は、ボーダーにいた頃のどの瞬間よりも、生き生きと輝いていた。
「最高じゃん。そういう『ハラハラするゲーム』が、ずっとやりたかったんだよね」
犬飼はアフトクラトルの紋章が刻まれた黒いマントを翻し、それを無造作に肩へと羽織った。彼にとって、二宮や辻󠄀が今頃地球でどんな涙を流し、どんな風に絶望しているかなど、もう知ったことではなかった。クリアした古いゲームのセーブデータがどうなろうと、興味がないのと同じように。
「じゃあ、行ってくるね。おれの新しい飼い主さん」
犬飼澄晴は、いつも通りの軽い足取りで、神の国の暗い廊下_本当の奈落の底へと、嬉しそうに歩き出していった。
コメント
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うわ、めっちゃ重厚な世界観だ…! 冒頭の紫の雲と剥き出しの星々の描写から、一気にアフトクラトルの空気に引き込まれました。犬飼の、退屈を「嫉妬」と自覚するところ、すごく刺さりました。あの、何でもできてしまうからこそ満たされない感覚の描き方が丁寧で、彼が「本物の狂気」を纏うに至る過程に説得力がある。緊急脱出なしの戦場で、初めて生き生きとするラストの対比が美しくて怖い。続き、めっちゃ気になります!