テラーノベル
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神の国の東方に位置する”錆びた渓谷”と呼ばれる荒野は、常に不気味な赤茶色の霧が立ち込めていた。岩肌は鉄分を多く含んで赤く変色し、吹き抜ける風はまるで獣の呻き声のように、キィキィと鋭い音を立てて鼓膜を削る。
「おい、玄界の。遅れるな。足手まといになれば、その場で置いていくからな」
前方を歩くベルティストン家の私兵隊長_頭部から灰色の角を生やした、いかつい容貌の男が、振り返りもせず吐き捨てた。彼の背後には、同じように角を持った神の国の正規兵たちが二十人ほど、整然と隊列を組んで進んでいる。彼らの纏う漆黒の甲冑は、この霧の中でも一切の光を反射しない。
「はーい、了解了解。ちゃんとついていってるよ」
犬飼澄晴は、その隊列の最後尾を、まるで遠足の付き添いのような軽い足取りで歩いていた。彼の肩には、昨日ハイレインから与えられた神の国の突撃銃型トリガーが、だらりと下げられている。
今回の任務は、対立する他の領主_リリオン家が雇い入れた、好戦的な近界民の傭兵部隊の排除だった。領地争いの小競り合い。神の国においては、日常茶飯事の泥泥とした局地戦だ。犬飼は走りながら、自身の内側にあるトリオンの感覚を確かめていた。ボーダーのトリガーを使っていた頃は、トリオンの消費量は常にメーターとして視界の端に美しくデジタル表示されていた。残り何パーセント、緊急脱出まであと何分。すべてが計算可能で、二宮の完璧な戦術の枠組みの中に収まっていた。だが、この銃は違う。握り締めるグリップから、ジワジワと、自分の体内のトリオンが泥臭く吸い上げられていく感覚がダイレクトに伝わってくる。メーターなどという親切なものはない。自分の感覚だけが頼りだ。そして何より、この感覚が途切れた瞬間、待っているのは戦闘隊の解除_生身の露出と、その場での”確実な死”だった。
……うん、この、一歩間違えたら指の先から腐っていきそうな生々しさ。悪くないね
犬飼は前髪を揺らす風を感じながら、ふっと口元を歪めた。恐怖はない。あるのは、ただ長い間忘れていた、皮膚が粟立つような強烈な実戦の感覚だった。
「敵襲ーッ! 防御陣形を展開せよ!」
隊長の怒号が響いたのと同時に、赤茶色の霧の向こうから、無数の赤い光の弾丸が降り注いできた。リリオン家の傭兵部隊が、岩陰から一斉に奇襲を仕掛けてきたのだ。神の国の兵士たちは、手際よく左手の甲から結晶状の強固なシールドを展開し、敵の弾丸を受け止める。バリバリと不気味な破砕音が響き、削られたトリオンの火花が霧を紫に染めた。
「玄界の、下がっていろ! 貴様の薄いトリオンなど、一撃で消し飛ぶぞ!」
隊長が叫ぶ。神の国において、人工的な角を持たない通常の人間は、それだけで”トリオン能力の低い劣等種”として扱われる。ましてや玄界から来た裏切り者など、ただの肉壁程度にしか思われていない。だが、犬飼はその警告を、いつもの軽い笑みで聞き流した。
「せっかく面白いゲームが始まったのに、下がってるなんて勿体ないじゃん」
犬飼は岩陰からひょいと身を乗り出すと、手にした黒い突撃銃を、敵の伏兵がいると思われる岩肌へと向けた。引き金を引く。ドガッ、と重い反動が犬飼の腕を突き抜けた。放たれたのは、ボーダーの整然とした誘導弾とは全く異なる、どす黒い紫色の弾丸だ。それは空間に放たれた瞬間、まるで意思を持つ蛇のように、不気味に身をくねらせながら空中をのたうち回った。
「な……ッ! 何だ、あの軌道は!?」
リリオン家の傭兵たちが驚愕の声を上げる。通常の誘導弾であれば、射手の脳内で設定された誘導軌道、あるいは敵のトリオン反応を追尾する規則的なカーブを描く。それは二宮隊にいた頃、犬飼が何万回と繰り返してきた”セオリー通りの弾道”だ。だが、この銃は、犬飼の「退屈しのぎに、ちょっと意地悪な弾道を試してみたい」という歪んだ思考の波形をそのまま吸収し、空間のトリオン濃度に反応して、直角、あるいは螺旋を描きながら、予測不能のルートで敵へと殺到した。
岩陰に潜んでいた敵の狙撃手の胸元で、紫色の弾丸が炸裂した。その傭兵は、緊急脱出の光に包まれることはなかった。戦闘体がその場で粉々に砕け散り、中にいた生身の近界民が、悲鳴を上げる暇もなく荒野の泥の中に転がり落ち、物言わぬ肉塊へと変わった。
「わぁ、本当に光らないんだ」
犬飼は、その凄惨な死の光景を、まるで見慣れたチェスの駒が盤上から取り払われたかのように、冷淡に見つめた。血の匂いが霧に混じる。これが、本当の戦場。誰も守ってくれない、誰も助けてくれない、一歩間違えれば自分もあの泥の仲間入りをする地獄。その事実が、犬飼の空っぽだった胸の奥を、ドクドクと激しい鼓動で満たしていく。
「貴様……、今の射撃は、一体どうやった」
戦闘が終わり、十数人の敵の死体が転がる荒野で、私兵隊長が戦慄したような目で犬飼を睨みつけていた。角を持たない劣等種のはずの玄界人が、神の国の荒々しいトリガーを初陣で完全に使いこなし、敵の最も厄介な狙撃手を一瞬で処理したのだ。アフトの兵士たちの目が、明確に”不気味なものを見る目”へと変わっていく。こいつは、ただの裏切り者ではない。何を考えているか分からない、底の知れない狂犬だ、と。
「ん? 別に普通だよ。この銃、おれの言うことをすごくよく聞いてくれるからさ」
犬飼は、返り血がついた黒い銃身を、服の袖で無造作に拭き取りながら、いつも通りの完璧な笑顔を浮かべた。
「二宮さんのチェス盤だとさ、『そこに誘導弾を撃つのは効率が悪い』とか、色々怒られちゃうんだけど。……ここは誰も文句言わないし、めちゃくちゃに撃っても、誰もおれを叱らないでしょ?」
犬飼の瞳の奥には、敵を殺した罪悪感も、生き残った安堵も存在しなかった。ただ、次のゲームのステージを待ち望むような、純粋で、底無しの飢餓感だけがギラギラと鈍く光っている。
「ねぇ、隊長さん。次の敵はどこ? 早く行こうよ。おれ、あっちの退屈な世界には、もう二度と戻りたくないんだよね」
赤茶色の霧の中、漆黒のマントを羽織った犬飼澄晴は、神の国の兵士たちよりも遥かに深く、神の国の闇へとその身を浸し始めていた。
コメント
4件
いつもいいねをくださるゲストさん、ありがとうございます( ᴗ ̫ ᴗ )
うわあああ犬飼くんの狂気がヤバすぎる!😭💕 二宮さんに怒られてた頃の抑圧が全部反動で出てる感じ、たまらんね…「誰も叱らないでしょ?」の台詞でゾクっとしたよ。完全に戻れないとこまで来ちゃった感がエモい…!次の敵探しに行く姿、血の匂いの中で笑ってるのがもう狂犬すぎる。続き早く読みたい〜!🔥
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