テラーノベル
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社での生活が数日過ぎた頃、私はある言いようのない違和感に気づいた。
この山は、常にどこか「乾いて」いるのだ。
見渡す限り、木々の葉は青々として生命力に満ちているように見える。
けれど、ひとたび風が吹けば、舞い上がるのは湿り気を含まない無機質な土埃だった。
社の周りを囲む優雅な池も、今ではひび割れた水底を晒し、かつての清らかな水の記憶を失っている。
その光景は、山を下りた先にある、あえぐ村の姿と重なって見えた。
「蒼様。どうしてこの村には、雨が降らないのですか?」
ある日の午後。
縁側に座り、古びた巻物を静かに眺めていた蒼様の背中に、私は思い切って問いかけた。
村の人々は、これを「龍神様の怒り」だと信じ恐れていた。
天の恵みが絶たれたのは、誰かが神の逆鱗に触れたせいなのだと。
けれど、私の目の前にいる蒼様は、言葉こそぶっきらぼうで不器用だが
私の拙い料理を「ごちそうさん」と言って綺麗に平らげてくれる、誰よりも不器用で心優しいお方なのかもしれない。
そんな方が、罪のない赤子や獣を苦しめるために
無慈悲に雨を止めるなんて、どうしても思えなかった。
「……お前には関係のないことだ」
蒼様の手が、ぴたりと止まった。
その声は、これまで聞いたどの拒絶よりも低く
そして冬の氷のように冷たかった。
一瞬、背筋に冷たいものが走る。
けれど、私はここで引き下がるわけにはいかなかった。
村の家畜が痩せ細って倒れ、水不足に喘ぐ人々が、乾いた喉で天を仰いで泣き叫ぶ姿を
私は「厄災の子」として物置からずっと見てきたのだ。
そして何より、私のすぐ隣にいるこのお方が
独りで抱え込んでいる「重荷」の正体を知りたかった。
「……関係あります!私は蒼様の……専属料理人なんですから!水がなければ、美味しいご飯も、蒼様の好きな温かいお茶も作れません!」
勢いよく言い切ると、蒼様は呆れたようにふっと肩を揺らした。
彼は持っていた巻物をゆっくりと閉じ、重い腰を上げて、私に向き直った。
その瞳には、深い諦念と、決して癒えることのない悲しみが渦巻いていた。
「……ついてこい」
「…!は、はい!」
彼に導かれるまま、社のさらに奥
巨大な御神木が天を突くようにそびえ立つ断崖へと向かった。
そこからは、ひび割れた田畑がどこまでも続く
惨めな村の全景が一望できた。
蒼様は無言で村を見下ろしていたが
やがて静かに、自分の胸元───
着物の合わせを、迷いを断ち切るようにゆっくりと緩めた。
「っ……!」
あまりの光景に、息が止まった。
月光のように白い彼の肌、その心臓に近い場所に、見るも無惨な「傷」が刻まれていたのだ。
それは鋭利な刃物で乱暴に抉られたような、黒ずんだ深い傷跡。
そこだけ龍の鱗が無理やり剥がれ落ち
腐り落ちているかのように生々しく、痛ましく腫れ上がっている。
「……これが、人間から受けた『返礼』だ」
蒼様の瞳に、暗く濁った火が灯る。
かつて、この地が数年に一度の凄まじい飢饉に襲われた時のこと。
若き神であった蒼様は、人々の祈りに応え、慈愛の雨を降らせ続けた。
村人は涙を流して喜び、彼をこの世の救世主
「守護神」と崇め奉ったという。
けれど、雨が降り、大地が潤い
豊かな実りが約束された瞬間───
彼らの「感謝」は醜い「欲望」へと姿を変えた。
「龍の『逆鱗』を煎じて飲めば、不老不死の力を得られる───。そんな愚かな迷信を信じた村の者たちが、夜陰に乗じて、無防備な俺を襲ったのだ」
「……俺が、連中のために雨を降らせ、神としての力を使い果たした直後。最も力が入らぬ時を狙ってな」
蒼様の拳が、骨が浮き出るほど白く強く握りしめられる。
「俺は、信じていたのだ。共に生きる者として……だが、人間など信じるだけ無駄だと、その時に身を以て知った」
「だから俺は雨を降らせるのをやめた。この村がどれほど乾き、どれほど惨めに滅びようとも、それは連中が自ら招いた報いだ」
吐き出される言葉は、鋭い刃となって私の胸を突き刺した。
私は、何も言えなかった。私が「厄災」として捨てられた、あの身勝手な村。
そこに住む大人たちが、かつてこれほどまで残酷で卑劣な裏切りを
目の前で孤独に耐え続けているお方に働いていたなんて。
気づけば、私は無意識に一歩踏み出し、その傷跡にそっと手を伸ばしていた。
「……なっ、何をする…!」
蒼様が驚愕して身を引こうとする。
けれど、私はその手を離さなかった。
指先から伝わる彼の肌はひどく冷たく、けれど傷の奥では激しく
そして苦しげに鼓動が打たれていた。
私は逃げようとする彼を押し留め、その黒ずんだ傷跡に、私の手のひらをそっと重ねた。
「……痛かった、ですよね。…ずっと、お一人で……」
ポタリと、私の目から溢れた涙が、彼の胸元に落ちた。
村の誰も、彼の痛みを見ようとはしなかった。
「神様なんだから雨を降らせて当然だ」と、自分の利益だけを求めて彼を傷つけ
そして今もなお、生贄という名の押し付けを続けている。
「……ごめんなさい。私は、村の人たちのしたことを許せません。絶対に、許せません…そんな酷いことをしていたなんて…」
私の涙が、蒼様の傷跡に触れた。
その瞬間。
不気味に黒ずんでいた傷口が、ほんのわずかだけ
私の涙を吸い込むように白く浄化され、まばゆい光を放った。
「お前……なぜ、泣く?……それに、なぜお前が謝る?傷ついたのは俺で、お前ではないだろう。お前の頬を濡らす理由など、どこにもないはずだ」
蒼様の困惑した声が、震えながら響く。
「…それでも、そんなお話聞いたら、あの人たちと同じ人間として申し訳なくなっちゃいますし…感情移入しちゃって…ごめんなさい」
彼は、溢れ出る涙を止められない私の肩を、大きな、温かな掌でそっと包み込んだ。
その手は、初めて出会ったあの日よりも、ずっと、ずっと温かかった。
「……変な女だ。生贄として捨てられ、死を待つ身でありながら、あろうことか神を憐れむなど」
彼の手が、私のピンク色の髪を愛おしそうに、そして慈しむように優しく撫でる。
その時。
私たちの指先に、言葉では言い表せないほど美しい淡い光が灯った。
目に見えない「赤い糸」が、互いの体温を伝える媒体となるように
より一層太く、そして逃れられないほど複雑に絡み合っていくのを、私は肌で感じていた。
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