テラーノベル
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階段を下りて、渡り廊下を通って、どこかへ。
遥は、何も言わなかった。
いや──言えなかった。
引かれる腕に、痛みはなかった。
けれど、引かれている「理由」がわからなかった。
何も、言われなかった。
ただ、日下部の手は、しっかりと遥の手首を掴んだまま、離さなかった。
誰もいない、理科準備室の前で止まる。
ガチャ、と音がして、鍵が開いていた。
中に入る。扉が、音を立てて閉まる。
途端に、静寂。
さっきまでの教室のざわめきも、女子たちの声も、蓮司の笑い声も──全部、遠くなった。
遥は、自分の手首を見た。
掴まれていた痕が、うっすらと赤くなっていた。
「……なにしてんの、日下部」
やっと、声を出せた。
けれど、それは自分でも驚くほど小さくて、乾いていた。
日下部は、答えなかった。
かわりに、ただ──遥を見ていた。
その目だけが、異様なほど、真っ直ぐで。
「……勝手なこと、すんなよ」
遥は笑ってみせた。
唇の端だけを引き上げる、慣れた笑い。
「演技だって、もうわかったろ? だから、何?」
目を逸らす。
そのくせ、逸らしきれない。
沈黙。
「……なんもしてないのに、勝手に怒って、勝手に引っ張って」
遥の声は、次第に揺れていった。
「“守ってやる”とか、そういうんじゃないんだろ。お前、そういうの──嫌いだったじゃん」
沈黙。
「俺、演技してんの。恋人ごっこしてんの。別に、お前に……信じてもらわなくても……」
そこで、言葉が切れた。
喉が詰まる。うまく息ができない。
(……信じて、ほしかったくせに)
(俺は……お前だけには……)
足元がふらついた。
その瞬間、日下部が一歩だけ近づく。
何も言わない。何もしない。
けれど、そこにあるのは──ただ“沈黙”ではなかった。
「……俺、なんかされる方が、マシなんだよ」
ぽつりと、遥が漏らした。
呟きにもならない、ひび割れた音だった。
「“何もされない”のが……一番、怖いんだよ」
日下部の目が、揺れた。
けれど、遥はもう見ていなかった。
「何もされないと、俺、どうしていいかわかんなくなる……」
背中を丸めるように、遥は壁に寄りかかる。
「だから、蓮司に……されてる方が、まだ……意味があるんだよ……」
その場に、しゃがみ込んだ。
「気持ち悪いだろ。バカみたいだろ」
日下部は、答えない。
ただ、ゆっくりと、遥のそばに腰を下ろした。
「……何もされなかったのが、一番の地獄だった」
遥は、自分でも気づかないまま、口にしていた。
「なのに、“なんで泣いてるの”とか、“生きててよかった”とか──そう言われんの、ほんと、無理」
喉の奥で、くしゃりと何かが潰れる音がした。
沈黙が、重く張り詰める。
そのとき。
「遥」
低い声が、ふわりと落ちる。
遥は、ぴくりと肩を震わせる。
日下部は──それでも、「守る」とは言わなかった。
ただ、その名前を呼んだ。
誰にも知られないような、音で。
それだけで、遥は、また泣きそうになった。
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