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#溺愛
ゆゆ

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#成り上がり
aohana
1,436
縁談を知らされたあの日、父は確かに言っていた。
鳳公爵夫人たっての縁談だと。
だが、それはあまりにも不可解な話だった。
物心ついた頃には屋敷の物置に住み、近隣の住人にさえその姿を見せたことはない。
女中たちでさえ千歳のことを見て見ぬふりをし、誰の目にも留まらないはずの自分を、なぜ雲の上の存在である鳳夫人が指名したのか。
「理由が、知りたくなっただろう?」
耳たぶをかすめる鷹臣の熱い吐息が、全身を甘く痺れさせる。
「……はい」
千歳が消え入りそうな声で正直に答えると、鷹臣は満足げに目を細め、包み込んでいた腕をゆっくりと解いた。
「まずは残さず食べろ。俺は少し出掛けてくる」
軍靴の規則正しい足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まる。
「いってらっしゃいませと、告げる間もなかったわ……」
一人残された静かな食卓。
かぼちゃのスープは甘いはずなのに、どこか胸の奥が締め付けられるような切ない味がした。
なぜ、私だったのか。
答えを知るのは怖いが、彼の側にいられる正当な理由も欲しくて堪らない。
複雑な胸中を抱えながらも、千歳は鷹臣の言いつけを守るため食事を続けた。
◇
鳳邸は白を基調とした壮麗な洋館だった。
至る所に花が活けられ、大きな窓から明るい日差しが差し込む広々とした応接室は、物置生活が長い千歳には眩しい。
愛らしい花柄の磁器カップ、触れるのも躊躇うほどに磨き抜かれたスプーン。視界に入るすべてが美しい世界を体現していた。
「昨日は鷹臣がいてくれて、本当に助かったわ」
「逆だろう。俺がいなければ会場は壊れなかった」
珈琲を飲みながら肩をすくめる鷹臣を「相変わらず捻くれているわね」と鳳夫人が笑う。
昨夜は『神楽坂閣下』と呼び、あんなに畏まっていらしたのに……?
祖母と孫ほど年齢の離れた二人が、互いに気兼ねなく親密な空気で言葉を交わしている。
その不思議な光景を千歳は目を丸くしながら見つめた。
「あら、やだ。お話ししていないのね?」
「必要ない」
そっけない鷹臣に呆れた鳳夫人は、困惑する千歳の顔を見ながら優雅に微笑む。
「孫のお嫁さんになってくれてありがとう」
「……えっ? 孫? ええっ?」
千歳は驚きのあまり、鷹臣と鳳夫人を何度も交互に見つめてしまった。
そしてすぐに自分の失礼な振る舞いに気づき、瞬時に顔を真っ赤にして深く頭を下げる。
「も、申し訳ございません! 鳳夫人と鷹臣様が、その……ご、ご親族だとは露知らず……!」
「気楽にしてちょうだい。硬い挨拶は、昨日の夜会だけで十分でしょう?」
鳳夫人は動揺する千歳の素直さが気に入ったのか、楽しげに笑いながら目の前に置かれた黄金色に輝くカステラを勧めてくれた。
「それにしても驚いたわ。斎宮の家に娘が二人いたなんて」
当たりの娘が来てよかったと鳳夫人は胸を撫で下ろす。
夫人は柔らかな手つきで珈琲へミルクを注ぎ、ミルクが混ざり合うのを確かめたあと優雅に口に含んだ。
「あなたのお祖父様との約束で、あなたは生まれてすぐに鷹臣の嫁になることが決まっていたのよ」
「……お祖父様……?」
記憶にはまったくない祖父との約束と言われた千歳は戸惑う。
「水鏡の娘が生まれたと。これからの帝都に必要な神の子だからと、あなたのお祖父様は誇らしげだったわ」
鳳夫人は、遠いあの日を懐かしむように目を細めた。
その後、祖父が亡くなり、斎宮家に様子を見に行ったら可愛らしい女の子が遊んでいたと。
鳳夫人はその子が水鏡の娘だと思い込み、両親に愛された幸せそうな娘を18歳になるまでは親元に置いておこうと決めたのだと、千歳に教えてくれた。
「遊んでいたのは……」
「えぇ。妹の方だったのね。あなたが幸せに過ごしていると思い込んでいて申し訳なかったわ」
もっと早く助ければよかったと鳳夫人は目を伏せる。
鳳夫人の後悔している顔を見た千歳は、自分のことをこんなに思ってくれる人がいたことに驚いた。
「あの日、縁談をくださったのは」
「あなたが18歳の誕生日を迎えたからよ」
「私は……18歳、だったのですね」
千歳の口から漏れたのは、歓喜ではなく戸惑いに満ちた呟きだった。
自分がこの世に生を受けた日など、誰も教えてはくれなかった。
祝われることも、名前を呼ばれることさえない物置の中では、年齢という概念すら霧の向こう側だったのだ。
「……知らなかったのか?」
「はい。毎日同じ日の繰り返しで、天気が変わるくらいしかわからなくて」
ただ、毎年妹が祝われるたびに、私もひとつ年を取ったのだと思ったと、千歳は悲しそうに告げた。
不意に隣からボキッという変な音が聞こえる。
驚いた千歳が隣を見ると、鷹臣が手にしていた銀のスプーンがぐにゃりと歪んでいた。
「あらやだ。馬鹿力ね」
「この銀が薄いのだろう」
鳳夫人が目を丸くすると、鷹臣は忌々しげに歪んだ銀の塊をテーブルに放る。
帝都一の職人が鍛えた一級品の銀食器を安物と言い切る鷹臣の横顔は、不機嫌そのものだった。
「今後、おまえの時間は、すべて俺が管理する」
「もっと素直に言いなさいよ。俺が誕生日を毎年祝ってやるって」
呆れたように口を挟んだ夫人の通訳を聞いた千歳は、弾かれたように顔を上げる。
「……祝って、いただけるのですか……?」
私の誕生日を?
誰からも望まれず、ただ死ぬ日を待たれていた私が祝ってもらえる……?
千歳の目は、みるみるうちに潤んでいく。
「おまえの願いを叶えることなど、俺には造作もないことだ」
「ありがとうございます、鷹臣様」
千歳のまっすぐな感謝の言葉に、鷹臣はふいっと顔を背けた。
だが、珈琲を喉に流し込むその耳の淵は、隠しきれないほど赤くなっている。
千歳は嬉しそうに微笑むと、目の前の美しい焼き色がついたカステラと呼ばれる食べ物に手を伸ばした。
「……美味しい」
一口頬張ると、卵の優しい甘さとザラメの食感が口いっぱいに広がる。
こんなに贅沢な食べ物をいただく日がくるなんて。
斎宮家では見たことがない食べ物に千歳は感動してしまった。
「そうそう、斎宮の家だけれど……」
鳳夫人がパチンと扇子を鳴らすと、女中たちがスッと部屋から消える。
先ほどまでの和やかな空気が、一瞬にして刺すような緊張感に塗り替えられた。
「あそこにはもう、何ひとつ残っていないわ」
夫人は冷徹な貴婦人の顔で、昨晩義母と義妹が逃げるように帰って行ったことを教えてくれた。
そして今日、斎宮権蔵の訃報と斎宮家の爵位剥奪という報せを役人が斎宮家に持っていったところ、すでに義母と義妹の姿はなく、使用人たちが家財道具を奪い合い、それぞれ持って逃げたそうだ。
「義母たちは……?」
「使用人の一人が、『お嬢様は早朝に黒い服の男性と出て行った』と言っていたそうよ」
知人かしら? と聞かれた千歳は首を横に振った。
物置に住んでいた千歳は親戚であろうと姿を見せてはいけない存在だった。
もちろん誰かに紹介されたこともないし、客が来たら絶対に物置から出てはならなかった。
「親戚の誰かでしょうか?」
「いいえ。親戚がいたら、爵位はその親戚に移るはずよ」
剥奪の時点で男性親族はいないと言われた千歳は、ますますわからないと首を傾げた。
「母親が出て行く姿は誰も見ていないから、娘を置いて一人で逃げたのかしら?」
あの義母が、あんなに溺愛していた百合子を置いて?
百合子のためならなんでもしてあげるあの人が。
「それで、あの屋敷はどうなるんだ?」
「調査が終わり次第、取り壊しだそうよ」
「そうか」
珈琲を飲みながら鷹臣はさっさと壊せと冷酷に答える。
「千歳の記憶を汚すものは、形ごとこの世から消し去るのが一番だ」
「でも取り壊す前に、千歳さんを連れて行ってあげてはどうかしら?」
もしかしたらお母様の遺品があるかもしれないと鳳夫人に言われた千歳は目を見開いた。
「母の……遺品……?」
千歳を産んですぐに亡くなった母は斎宮家の女中だったと、お喋りなベテラン女中に聞いたことがある。
名家である斎宮家の跡取り・権蔵が、あろうことか身分の低い使用人に手を出し、生まれたのが千歳なのだと。
しかも正妻である義母が身ごもる前に。
だからこそ義母は千歳を汚らわしいものとして忌み嫌い、執拗に虐げてきたのだ。
母の形見など、あの冷酷な義母が残しているはずがない。
でも、もし万が一にでも、母が生きた証に触れることができるのなら。
「行くか。千歳」
空になったカップを置いた鷹臣が千歳を見つめる。
「行きたい……です」
千歳は震える声を絞り出しながら、鷹臣に答えた。
コメント
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うわあ…第7話、めっちゃ重かったけどすごく良かったです🥀 千歳が自分の誕生日すら知らなかったっていうシーン、胸がぎゅっとなりました。鷹臣がスプーン曲げちゃうとこ、あれ絶対怒りじゃなくて悲しみとか切なさからですよね…。不器用すぎてじわる。 鳳夫人が「孫のお嫁さんになってくれてありがとう」って言ったところ、ほっこりした反面、千歳が今までどれだけ孤独だったか考えると涙出そうになりました。でもやっと味方ができたんだなって思えて、温かい気持ちになりました🌙