テラーノベル
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風呂場の床はまだ湿っていた。
足跡が残るほど冷たいタイルの上に、遥は膝をついていた。
「──立てよ。這うのはさすがに、つまらねぇ」
晃司の声は笑っていた。
けれど、笑いながら蹴るのはやめなかった。肋骨の上をなぞるようなつま先。
わざと折れないように蹴る──慣れた手つきだった。
「今日、屋上だったんだろ?」 「楽しかった? カメラ入ってたって知ってた?」
遥は何も言わない。言えない。
タイルの冷たさと、濡れた髪が頬に貼りつく感触だけが、現実の証だった。
「日下部がどっち側に立つかなんて、初めからわかってただろ」 「あいつは“こっちの人間”だよ。──ま、どっちでもいいけど」
晃司は、遥の顎をつかんで、上を向かせた。
濡れた指が頬に触れる。笑っていた。異様に、優しく。
「あのな。優しくされたいなら、“見せ方”変えないとダメなんだよ」 「“かわいそう”って顔してりゃ、多少は緩めてもらえるって思った?」
爪が喉元に食い込んだ。
「違う。“面白い顔”すんのが、一番効くんだよ」
遥の顔を傾けて、唇の端を親指で押し広げる。
「──こういう、泣きそうで、でも泣けない顔。……これ、最高」
息が詰まる。首筋にかかる湿った呼吸と、耳元の低い笑い声。
「“学校と家”、地獄はどっちが楽しい?」
答えは求められていない。
代わりに、腰を押さえつけられた。声は、もう出せなかった。
「“教えて”やるって言っただろ。……“泣かされる側”じゃなくて、“泣かせる側”の意味」
身体がずっと震えていた。
それは恐怖でも屈辱でもなく、冷静な絶望だった。
「黙ってたら、“大人しくしてる”って思われるよな」 「でも喋ったら、“わかってる”ってことになる」
だから──遥は、声を出した。
「……終わったら、……風呂、貸して」
晃司の動きが一瞬止まった。
「ははっ。……生意気だな、マジで」
「──でも、そういうの、嫌いじゃねぇよ」
その一言で、また夜が長くなった。
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