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レモニカは工房馬車のがたがたと揺れる窓蓋を閉じ、吹き込む雪と、知らず知らずグリュエーを追い出す。世界の始まる前のような真っ白な景色の中で走る工房馬車は、左右どちらの側にも馬に跨る焚書官たちがいた。雪道を蹴立てる蹄の音は迫りくる雪崩を思わせる。今更逃げるわけがないのに、何を警戒しているのだろう、と思ってレモニカは焚書官の姿で憮然としていた。
天井の梁の辺りで何かが動いたことに気づき、見上げるがその正体は分からなかった。鼠のブーカに助けられて以来、レモニカは一度も鼠の姿を見なかった。おそらく多くが魔物の材料になってしまったのだろう、とベルニージュに言われ、レモニカは落ち込んでいた。少なくともブーカは魔物化から逃れたはずなのだが、やはりこちらが鼠の姿でなければ会いづらいということだろう、と自分を納得させる。
暖炉の燃え盛る温かな一階の部屋でユカリとベルニージュは机を挟んで向かい合い、ユビスは暖炉の前でうつらうつらとしている。
「さて、離れ離れになっていた時の情報共有はこんなものかな」とベルニージュは言う。「次は出会う前のことかな」
その言葉にレモニカはどきりとする。レモニカとて隠していることは沢山ある。ユカリやベルニージュを信頼していないわけではなく、彼女らの負担になることを恐れてのことだ。
ユカリはすっかり縮こまっている。
「ねえ、ラミスカさん?」とベルニージュは優しい声音で言うが逆効果だ。
ユカリは不貞腐れた様子で唇を尖らせ、しかしベルニージュの視線から逃れるように机を見つめている。いや、これが狙った通りの効果か、とレモニカは確信した。
「話したくなければ話すことはありません」レモニカは机のそばに駆け寄って、助け舟を出す。「ベルニージュさまだって今更ユカリさまを疑う訳ではないでしょうに」
「まあね。でもまさかね。って思いだよ。そんなに名前を言いたくなかっただなんて」
「お気になさらないでください、ユカリさま」とレモニカはユカリの隣に座り、慰めるように言う。「わたくしだってケブシュテラを名乗っていましたわ」
「それとこれとは違うでしょ」とベルニージュは言う。「事情が違……ううん」
レモニカは勢いづいて言う。「その通りですわ。まだ事情を聞いてすらいません。そうですわね?」
「その通りだよ」ベルニージュは観念した。「それなら聞こうじゃない。どういう事情があったのか。もちろん話したくなければ話すことはないけどね」
レモニカはまんまとベルニージュの思惑に乗せられてしまったことに気づき、言葉が途絶える。
ユカリは首を横に振って言った。「大した理由じゃないよ。ただ、村を旅立つときに、新しい人生が始まるんだと思って、新しい名前を名乗ったんだよ」
「それが禁忌? 大層なことで」とベルニージュは冷ややかに言う。
「ベルニージュさま。よしてください」とレモニカが叱ると、ベルニージュまで不貞腐れた様子でユビスの方を向いた。
ユビスは鼻を鳴らし、暖炉の薪が音を立てて爆ぜる。
二人ともまだまだ子供っぽいところがあるのだとレモニカは思い知った。たかだか二、三歳差ではあるが、自分は年上だということを忘れないようにしようと心に刻む。
ユカリが思い出したようにつけ加える。「それにラミスカと魔法少女ユカリは別の人物ってことにしないと、焚書官が面倒だから」
「それはそうだろうけど、元の姿の時もユカリを名乗ってたら意味ないでしょ?」と言ってベルニージュは首を傾げる。
「だから焚書官たちの前ではエイカを名乗った」とユカリは言う。
「ん? ああ、あの時の焚書官たちは別の局だったね。なるほど、上手いこと嘘と偽名が噛み合ったってわけか」レモニカの知らない何かにベルニージュは納得していた。「でもルキーナには知られてたね」
ユカリは首を傾げて心許なさげに呟く。「それは母が話していたってことだと思うけど。どういう関係なんだろう」
ユカリのその疑問は温かな部屋に浮かんで溶けるように消える。この場の誰にも分かりはしない。少なくともユカリの母にとってルキーナは信頼できる人物だということだ。
ベルニージュは自分が不貞腐れていたことを忘れたかのように机に身を乗り出して言う。「そうそう、関係といえばラミスカだよ」
「はい」とユカリことラミスカは小さく返事する。
「違う」ベルニージュは軽く机を叩く。「あの行商人のラミスカ。あれは何者なの?」
レモニカもまたずっと気になっていたことだ。ユカリの知り合いだったが、これまで名前は知らなかったという。それもまた嘘なのだろうか、とレモニカは心の中で考えていた。
「何者って言われても、私も驚いたんだよ」ユカリの言っていることは本当らしく聞こえる。「自分と同じ名前だったなんて。あの時は焦った」
「同じ名前だったなんて? 偶然だって言いたいの?」
ベルニージュは心から驚いている様子だった。レモニカもまた偶然なわけがないと考えていた。
「いや、だって本当に知らなかったもの。名前なんて」ユカリはかぶりを振る。「それにラミスカがミーチオンでは珍しくない名前ってのも本当のことだよ。偶然じゃないとしても、何者かなんて分かんない」
「じゃあ、クオルが探しているラミスカがどっちのことかも分からないんだね?」
ベルニージュの問いかけにユカリは静かに頷いた。
ユカリもまた混乱しているということが、レモニカにもよく分かった。
「それで?」とベルニージュが素っ気なく言い、
レモニカが付け加える。「どうお呼びすればいいですか? ユカリさまかラミスカさまか」
ユカリは少しばかり俯き、何かを考える。迷っているという様子ではない。
「やっぱり普段はユカリが良い。ああ、でも今や悪名だしなあ」そう言ってユカリはため息をついた。
「じゃあこの三人の時だけユカリね」ベルニージュは淡泊に言った。「そうでない時はラミスカ。そもそも焚書官たちにエイカと名乗ったのが悪手なんだよ」
「だってそれはベルが珍しくない名前にしとけって」とユカリは訴える。
レモニカは知らない話だったが、確かにベルニージュは心当たりがあるようだった。赤い瞳が右に左に泳いでいる。
「それにしてもレモニカの功績は大きいね」ベルニージュはあからさまに話を変える。「今も魔導書の衣の位置は分かる?」
「はい」レモニカは身に宿る蜥蜴の呪いの醸し出す感覚を読み取る。「まっすぐに北東ですわ。とても不思議な感覚ですが、まるで頭の中に地図が収まっているようで、はっきりと位置がわかるのです」
それに病に伏す友のために医者を探す時のような、餓える子を養う母のような、焦燥感のようなものがレモニカの心をじりじりと焙った。
「別にいつも宿している必要はないからね」ベルニージュはレモニカが秘した焦燥感に配慮して言い添えた。「元型文字、魔導書に関しては、とにかくさっさと完成させた方が良い。あの魔導書の衣よりは、あの薄っぺらい魔導書の方が触媒としてはまだましだからね。クオルという脅威を弱体化させられる」
ベルニージュがクオルを脅威と認識している。それは今までの何よりもクオルが大きく変化したという事実をレモニカは実感させられた。
「そうだね」と言うユカリにはまだ何か心の中で燻っているものがあるようだった。
一度に多くのことがあって整理しきれていないのだろう。ルキーナという人物をよく知らないレモニカでさえ、彼女が妊婦であること、その腹が消滅したこと、追うようにして闇に呑まれたことをどう考えればいいのか分からなかった。
ユカリからすれば、ルキーナが生き別れの母エイカの知人だと知った直後の出来事だ。何を考えれば、何から考えればいいのか分からなくなってしまうことだろう。
ベルニージュの言う通り、腹をごっそりと失ってもなお生きていられるのなら、どういう形にせよ腹もその中の赤子も無事だと考えるのは、それほど楽観的でもない見立てだ。とはいえ、あの存在しない状態がいったい何なのか、この場の誰にも分からない。
ユカリを慰めうる言葉など、レモニカには一つも思い浮かばなかった。