サンヴィア北東部、北バイナ海を臨む長い長い海岸線は古の世より雨に見限られた不毛の砂漠だった。かの砂漠で真水を得ることは至難であり、太古には繁茂していたという森は雨と共に去り、夜露で渇きを凌げる小さな生き物たちでさえ海岸地帯を見限って南へと移動し、遠く旅をする季節の鳥が居留することさえなかった。ただ、人間だけは豊かな海の賜物を尊び、魚や貝、海藻や真珠に喜びと幸を見出して、海岸砂漠の地下に潜む水を掘り出すことで、狡猾な死の使いである渇きから逃れ、その不毛の土地に住み着き、名だたる華やかな都を築き上げた。
レモニカたちはトンド王国に属する港町の一つ、真珠に満たされた土地へとやってきた。家々は多くのサンヴィアの町々と同じく黒めいているが少し青みがかっていて、波打つ意匠や貝殻を装飾に使った建物の間を行くと、まるで海の底を歩いているかのようだった。
レモニカは潮の香りを嗅ぐのが初めてで、こんな時だが、海の煌めきと騒めきに心躍らせていた。冬の海はどこか侘びしく感じるとユカリは言っていたが、レモニカには巨大な蒼玉が太陽の輝きをいっぱいに浴びてその温もりに身悶えているように見えた。
アクトートの港町の通りはあまり広くないようなので三人と一頭は工房馬車を降り、徒歩で町へと向かう。焚書官たちは数人を先行させた以外はレモニカたちと共に行く。
港町は賑わっているどころではない。明らかに港町が養える以上の沢山の人間で溢れかえっていた。
町の入り口から少し離れたところでレモニカたちは言葉を交わす。
「すごい人だかりですわね。お祭りではなさそうですが」とレモニカは奮い立つように言う。
町の人々を眺めながら、同調するようにベルニージュも呟く。「みんな顔が暗いね。物々しい雰囲気。話を聞いてみる?」
「まあ、待て。それは任せている」
サイスは何事もなかったように平然としており、焚書官たちの士気も保たれている。自ら闇へ飛び込んだルキーナはともかく、犠牲となった焚書官たちを丁寧に弔った後は悲しみを表す者も触れる者もいなかった。
「どうやら難民のようだ」と先行していた焚書官から報告を受けたサイスが教えてくれる。「例のトンド王国軍とぶつかったという魔法使い、つまりクオルなのだろうが、奴の襲撃で王都は壊滅状態だそうだ」
難民たちは着の身着のまま逃げてきたらしく、行く当てもなく彷徨う者たちは寒さに凍え、皸に苦しんでいる。よくよく見ると老人を除けば女子供の方が多い。大きな戦闘となったのだろう。その犠牲の大きさは魔導書の衣の触媒としての強さに比例しているのかもしれない、とレモニカは気づく。
ベルニージュの談によると魔導書が完成した暁には弱体化するという話だ。そうやってユカリとベルニージュは二冊の魔導書を手に入れたらしい。であれば早急に魔導書を完成させることこそがクオルの弱体化と被害の軽減に繋がる。
この街では”髑髏と真珠が釣り合いて”の詩に従い、【天罰】、髑髏と真珠、天秤、揺らぐ均衡、絶え間なき審判、真正なる裁き、等々と呼称される元型文字を作るためにやってきた。髑髏はメヴュラツィエかボーニスのものを利用するつもりだった。死者の冒涜には違いないが、禁忌文字が完成した後、最たる教敵としての死後罰を与えることなく、手厚く葬るとサイスたちは約束してくれた。
あとは天秤と必要量の真珠だ。そもそも【天罰】という文字は、そのものが天秤のような形をしている。三人はそのまま天秤の皿の一方に髑髏、一方に釣り合うだけの真珠を置くのだろうと解釈していた。しかし軽い方のメヴュラツィエの髑髏でさえ、それなりの重さだ。その量の真珠を手に入れられるだけの予算はどこにもない。せめて借りられたならいいのだが。
焚書官たちは難民たちのことで何か手伝えないか、港町の領主のもとへ去ってしまった。
レモニカたちは人と人以外に尋ねてまわり、真珠商の居所を知り、道の端で相談する。
「もしも真珠商が駄目なら、宝飾職人か漁師に当たるとして」ベルニージュは通りを見渡す。「こんなご時世に沢山の真珠を貸してくれ、なんて言う余所者を相手にしてくれる可能性は低いだろうね」
「そうですわね」レモニカも肯定するような頷く。「財を蓄えているものほどぴりぴりしていることでしょう」
レモニカはなんとなくユカリも意見するだろうと思って目を向けるが、心ここにあらずと言った様子だ。誰とも目を合わさず、濡れた石畳を叩く沢山の足音に耳を傾けている。
「やはりユカリさまは工房馬車でお待ちくださいませ。お気分が悪そうですわ」とレモニカはユカリの温かな手を掴んで言う。「あんなことがあった後ですもの。少しくらい休んでも罰は当たりませんわ。あとはわたくしたちにお任せください」
ユカリはレモニカを見、ベルニージュをちらりと見、こくりと頷いた。
背中を向けるユカリにレモニカは声をかける。「お一人で大丈夫ですか?」
「うん。真珠のこと、よろしくね」とユカリは明るく言おうとした。
ユカリの背中が見えなくなるのを待って、大男の姿になったレモニカはベルニージュに詰め寄る。
「そこまで怒るほどのことですの? ユカリさまが偽名を使う必要のある旅をしているのは、ベルニージュさまの方がよくご存知でしょう?」
「だって」と言ってベルニージュは目をそらす。「信頼されていなかったってことでしょ?」
「そんなことは……」レモニカは言おうとした言葉を飲み込み、別の言葉を選ぶ。「まあ、そうかもしれませんわね。今やベルニージュさまよりわたくしの方がユカリさまに信頼されているのかもしれません」
「さすがにそれはないでしょ」ベルニージュは鼻で笑う。「ワタシたちがどんな危険を潜り抜けてきたか知らないくせに」
「わたくしとて、このサンヴィアで多くの障害をユカリさまと一緒に乗り越えてきましたわ。なんならわたくしはわたくし自身よりもユカリさまを信頼していますわ」
「それはどうなの? もっと自信持ちなよ」とベルニージュに呆れられる。
レモニカは思った方向に持って行くことができず慌てる。「と、とにかく! わたくしはユカリさまが元気になってもらえるように頑張りますわ。ベルニージュさまはせめて足を引っ張らないでくださいましね」
「上等だよ。レモニカの方こそ鼠になって踏み潰されないようにね」
二人はいがみ合いながら、しかしレモニカの変身がぶれないように手を繋いで真珠商の元へ向かう。
港町アクトートにおいて真珠商といえば注意深い者氏であり、レブネ氏といえば真珠商、と言う他ないほど優れた商人だった。かつて多くの商売敵を制した後、彼の名はサンヴィアの王侯貴族の間に轟き、されどその仕事相手は表に裏に多岐に渡る。彼と取引する沢山の逞しい漁師たちは誰もがその支払いに満足し、彼に仕事を依頼される宝飾職人達は己の業を十二分に評価する氏に不満を抱いたことはなかった。また彼の目の届くところで、彼から盗みを働こうとする者はいなかった。そして誰もが、我が身を省みぬ聖人の魂よりも煌びやかで、神々の姿を見通す巫女の瞳よりも純粋な、レブネ氏の商う真珠に心を奪われた。さらにはその儲けを社会に還元する篤志家としての名声をも得ている。
彼の良い噂は沢山あるが、悪い噂を話す人間はいない。ゆえに、それを知ることができるのは人間以外の者どもと会話できるユカリをおいて他にいなかった。二人はユカリによってもたらされた情報を携えて街を東へ向かう。
店はレブネ氏の館であり、アクトートの港町が誇る立派な灯台のすぐそばにある。広い庭を持つ館は高い塀に囲まれて要所に衛兵がうろついている。壁の近くに難民が寄りつこうものなら、屈強な兵士たちが飛んで来て、必要以上ではない力づくで遠ざけていた。
「本当にやるのですわね?」レモニカは既に覚悟を決めながらも確かめるように言う。
「まあ、一か八かのはったりだけど。ユカリが言うんだから間違いないよ。何とかなるでしょ。ちょっとした大道芸みたいなものだよ」とベルニージュは気楽に答える。
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