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よろけるように非常口から外へ出て行く山倉の後を、亮介は無意識に追った。非常扉の側の壁に背をもたれさせ、眼鏡を外して手に持ったまま、山倉は追ってきた亮介の方をうつろな目で見た。そして独り言のように言った。
「いい医者になりたかったら、嘘をつくのが上手くなれ……」
「え?」
別に山倉を責めて詰問しようとしていたわけではなかったが、亮介は出鼻をくじかれて言うべき言葉を失った。山倉は宙を見つめながら言葉を続けた。
「昔、私がまだ駆け出しだった頃に、先輩の医師から言われた事さ。正直その時は何のことか分からなかった。だが、今、この年になってやっとその意味が分かったよ。しかしね……」
山倉は一瞬声を詰まらせ、開いている左手で自分の顔全体を覆ってつぶやいた。
「そんな事、出来れば一生、知りたくも分かりたくもなかったがね……」
近隣の住民と共に順次患者の避難が始まり、容態の重篤な患者から順に消防団員の誘導で病院から送り出した。日が傾き、最後から二番目のバスの終発間際になって、小さなトラブルが起きた。
骨折で入院していた桜田という若い男が乗るはずだったバスに、一人乗れなくなるという話だった。桜田は恋人の若い女性に、病院まで仕事の道具を詰め込んだリュックを持ってこさせ、二人一緒にバスで避難する予定だった。
だがバスの座席が当初の予定表より一つ多く埋まっていて、あと一人しか乗れないと告げられた。何か手違いが起きたらしかった。それを聞いた桜田は、迷う事なく恋人の体を前に押しだした。
「だったら、こいつを連れて行ってくれ。俺はこの病院に残る!」
「勇太!」
彼の恋人の若い女性は悲鳴のような声を上げた。桜田は周りの人間を見回しながら言った。
「こいつは……妊娠してんだ」
驚いた宮田がその女性に訊いた。
「何か月なの?」
彼女は涙を浮かべながら、震える声で答える。
「三か月目です。先週お医者さんに言われたばかりで……」
桜田が亮介たち医師の方に、松葉杖によりかかりながら向き直り、訊いた。
「放射能って、子供の方があぶねえんだろ? まだ腹の中にいる赤ん坊なら、なおさら、そうだろ、先生たち?」
山倉が顔をしかめながら答える。
「それは……確かに……」
「だったら、俺が残って、おまえが安全な所まで逃げるんだ」
桜田は嗚咽を漏らし始めた恋人に向かって怒鳴るような口調で告げた。
「心配すんな。俺は患者つっても、これ以上の治療が要るわけじゃねえ。事が落ち着いたら、必ず迎えに行く。だから、今はおまえだけでも避難しろ。俺たちの、子供のためだ」
それから桜田は戸惑っている消防団員に向かって言った。
「そういうわけだから、そいつを連れて行ってくれ。早く!」
消防団員たちはうなずき、桜田の恋人の手を取って病院の外へ引っ張って行った。彼女は何度も振り返りながら桜田に向かって叫んだ。
「約束だよ! 必ず迎えに来てよ! 絶対だよ!」
患者のほとんどを送り出し、数人の軽症患者とともに、南宗田中央病院の医師、看護師たちがバスに乗り込む時間が来た。避難する看護師の中には、黒い物を見てパニックを起こした、吉田というあの若い新米看護師も含まれていた。
ありあわせのサイズがぶかぶかのダウンジャケットに身を包んだ吉田は、一緒に避難する看護師たちと最後のあいさつを済ませた途端、大声で泣きながら床に座り込んだ。泣きながら彼女は残る医師、看護師たちに詫びた。
「すみません、ごめんなさい……あたしは看護師なのに……プロでなきゃいけないのに……それなのに、それなのに……」
看護師長の宮田は力任せに吉田の肩をつかんで立たせながら、激しい、しかし思いやりのこもった声で言った。
「あんたはよくがんばった! あたしが保証してやる。新米の頃のあたしだったら、二日ともたなかったかもしれない。あんたは六日もこの地獄みたいな現場でがんばったんだ。胸を張って、行くんだよ。行っていいんだよ」
宮田に抱き着いてなおも泣き崩れる吉田の体を引きはがし、宮田は迎えに来た消防団員たちに怒鳴った。
「早く連れて行って。この子が何か言っても取り合うんじゃないよ。首に縄付けてでも、連れて行って!」
状況を察した消防団の男たちのうち二人が、吉田の両腕をつかんで外へ引っ張って行った。避難する他の医師、看護師たちも亮介たちに何度も小さく頭を下げながら、後に続いた。
宮田は病院の入口の外まで出て、彼らを見送った。吉田は何度も何度も後ろを振り返りながら、涙に濡れた顔を宮田の方に向けた。彼らの姿が道の角を曲がって見えなくなるまで、宮田は吹きすさぶ寒風の中、玄関に立ち尽くしていた。
最後のバスが走り去って行くエンジン音がかすかに聞こえて来た。この時を境に、南宗田市は、さながらゴーストタウンと化した。