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旅行から帰った後、家で【婚約者役を頼まれた彼に興味のない私役】をうまく演じられるかを不安に思っていた私だったが、その心配は思わぬ形で消えた。
それは智くんの仕事が忙しくなり、ほとんど家にいなくなったからだ。
家で顔を合わせる機会が減り、会ったとしても長時間じゃなかったので取り繕うことができたのだ。
婚約者役として同行するレセプションパーティーも多くなったがこちらは問題ない。
ただ彼を好きな自分を出せばいいだけなのだから。
2役をやるようになってから、演じるタイミングが完全に逆になっているという不思議な状況になんだか笑えてくる。
まさかこんなことになるなんて、偽装婚約者をやることになった時は思いもしなかった。
ふと、先日のレセプションパーティーで出会ったご夫人の言葉を思い出す。
ーーいつ相手がいなくなってしまうか分からないんだから、素直に気持ちを伝え合って、いつまでも仲良くするのよ?
あの時のこの彼女の言葉は私の胸にとても響いた。
いつ相手がいなくなるか分からないというのは、私も自身の家族を亡くした経験から強く同意する部分であった。
同じように智くんだっていついなくなってしまうか分からないのだ。
それはもちろん死という最悪の状況だけに限らず、いつもう婚約者役は必要ないと言われるかも分からないし、私のビザが切れたらもう会えなくなってしまうかもしれない、智くんの赴任先が日本になってしまう可能性だってある。
そうなってしまう前に素直に気持ちを伝えなくて良いのだろうか。
このまま偽装を続け、自分の気持ちも偽ったまま演じ続けてしまってもいいのだろうか。
ご夫人の言葉をきっかけに、こんな気持ちが少し芽生えつつあった。
そんな日々を送っていた11月下旬のある日のことだ。
思いもよらない訪問者が私の目の前に現れたのはーー。
その日も私はカフェでのアルバイトに精を出していた。
常連の演技好き仲間のジェームズさんが来店していて、私たちは毎年11月に予備選考が行われるアカデミー賞についての話題で会話に花を咲かせていた。
今年はあの作品が良かった、あの女優や俳優の演技が良かった、あの監督は最高だった等で盛り上がる。
お客さんが少なかったのをいいことに、すっかり話し込んでしまっていた。
ジェームズさんが帰って行くと、ちょうど私のシフトの時間も終わり、片付けをして同僚に挨拶をして帰宅する。
すっかり寒くなったプラハの街を、白い息を吐きながら足早に歩いていると、お店を出て少したったところでいきなり後ろから小さな声が聞こえた。
「亜希!」
日本語で呼びかけられたその声、その呼び名に、一瞬ピタッと動きを止める。
聞き慣れた声だったのだ。
でもこんなところで聞こえるはずがないものだから、私は聞き間違いかと再び歩き出す。
「亜希!亜希!ちょっと待って!」
今度はハッキリとその声が聞こえ、驚いて振り返る。
するとそこには、ここにいるはずのない人物、元マネージャーの皆川さんが立っていたのだ。
「み、皆川さん‥‥!?」
「亜希、やっと見つけたよ。会えて良かった」
安堵の表情を浮かべる皆川さんに対して、私は驚きで固まってしまう。
「な、なんでここに?それにどうしてここが分かったの?」
プラハに来ることは誰にも言っていなかった。
もちろん皆川さんにもだ。
だからなぜここにいるのか心底分からなかったのだ。
「亜希が事務所を辞めた後もずっと気になっていたんだよ。どうしてるのかって。でも亜希はマンションを退去すると突然消えてしまって。僕にすら行き先を教えてくれなかったから、本当に心配していたんだ」
「それは‥‥。もう皆川さんは私のマネージャーじゃないし、真梨花さんのマネージャーだったから。迷惑はかけられないよ。それなのに何でここに?」
「実は先日、週刊誌の記者が事務所に訪ねて来たんだ。プラハに亜希が住んでるのは本当かって聞きにきた。まだ確証を持ってる感じではなかったけどね」
その言葉に一気に背筋が冷たくなる。
まさか記者に勘付かれているとは思いもしなかった。
「事務所側もそんなこと知らなかったし、それを察した記者もガセネタっぽいなって思ってる風ではあったよ。第一、亜希はもううちの所属じゃありませんからって追い返したしね。それでその記者の言葉に僕はあることを思い出したんだ。確か亜希の学生時代の友達がチェコ人でプラハに住んでたなって」
「あっ‥‥」
そうだ、皆川さんは私と二人三脚でやってきたマネージャーだから、私の私生活をよく知っていた。
カタリーナとメールや電話で私がやりとりしている様子を見たこともあるし、私から皆川さんにカタリーナの話をしたこともあった。
「だから、記者の情報はあながち間違いじゃないだろうと僕には見当がついたんだよ。それで休みを取ってダメ元でプラハに来てみた。プラハのどこにいるかはサッパリだから、こういう日本人を見たことないかって聞いて周りながら探してたんだよ」
「うそ‥‥!?」
「ようやく見つけられてホッとしたよ。日本人が多くないとはいえ、やっぱりなかなかすぐには見つからないもんだね」
皆川さんは英語ができる人だが、それでもきっと探すのは大変だっただろう。
しかもお休みを取ってまで来るなんて。
「そこまでしてなんで‥‥?もう私は事務所を辞めた人間だよ?しかもあんなスキャンダルを起こした終わった女優なんだよ」
「あの時、亜希は何も言わなかったけど、あのスキャンダルは真梨花のせいなんじゃないの?」
「えっ‥‥!」
驚いて皆川さんを凝視する。
まさか皆川さんが気づいているとは思わなかった。
「もちろん僕も最初は知らなかったよ。でも真梨花のマネージャーをしているうちに、あの子ならやりかねないって思ってね。ある時、環菜の住んでいたマンションに住む駆け出しの男性アーティストと関係があるのを知って、あれは真梨花が仕組んだことだったんだろうとピンと来たんだ。亜希のこともよく思ってなかったしね」
なんと同じマンションに住む男性アーティストを協力者にしていたらしい。
協力者を探すのが大変だったと真梨花は言っていたが、きっとその人を色仕掛けで落としたのだろう。
「亜希、僕はね、やっぱり諦められないんだ。亜希を国民的女優にしたいって夢を。だからもう一度、一緒に日本でやり直そう?」
「そんな、そんなの無理に決まってるじゃない‥‥!もう私は終わった女優なの。もう前みたいには無理なの。今は今で新しい生活を頑張ってるからそっとしておいて」
突然の申し出に困惑しながら、私はもう話は終わりだと言わんばかりに歩き出す。
すると皆川さんに手首を掴まれて止められる。
「本当にもうそっとしておいて‥‥!私のことは忘れて‥‥!!」
そう言って手を振り払い、そのまま振り返りもせずに皆川さんの元から逃げた。
まさか皆川さんがプラハに来るなんて。
しかももう一度日本で一緒にやり直そうと言われるなんて‥‥。
皆川さんが私の演技力を高く評価してくれているのは嬉しいし、今も気にかけていてくれることには感謝している。
でも「日本」でもう一度やり直すというのは私の選択肢にないのだ。
もうあんな風に悪意に怯えたくないし、常に人目を気にした生活には戻れない。
それに‥‥智くんのいない生活を想像できなかったのだ。
しばらくすると、智くんも家に帰ってきた。
珍しく今日は帰宅が早い。
「おかえり!今日は早かったね。ごめん、今日はまだ夕食作ってなくて」
「ただいま。夕食のことは全然いいよ。実はテイクアウトで色々買って来たから、これ一緒に食べない?」
「え、本当に?それは助かるけどいいの?」
「環菜も今日は仕事だって言ってたから、まだ夕食作ってないかなって予想してたしね。環菜の分ももともと買って来たから」
なんて察しのいいことだろう。
私の分まであると言われ、それなら遠慮することないかと、お言葉に甘える。
私たちはテーブルにテイクアウトした夕食を並べて、一緒に食卓を囲み始めた。
食べ始めると、「そういえば‥‥」と智くんがおもむろに口を開いた。
「実はさっき帰り道に偶然街で環菜を見かけたんだけど、日本人の男性と一緒だったよね。あれだれ?」
まさか見られていたとは思わず、心臓が大きく飛び跳ねる。
皆川さんと一緒にいるところを見られるのは問題ないけど、会話の内容は聞かれたくなかったのだ。
「あ、まさか見られてたなんてビックリ!えっと、昔の知り合いだよ。ちなみに何話してるか聞こえた?」
「トラムの中から見かけただけだから、会話の内容までは聞こえなかったけど。何話してたの?聞かれたらまずい話?」
「ううん、そんなことないよ。ただ偶然だね~、元気~?みたいな世間話してただけだから」
「そうなの?なんかちょっと揉めてるみたいにも見えたけど」
「あ、本当?そんなふうに見えた?ちょっと昔のことを思い出してお互い感情的になっちゃったのかもね!あ、そうだ!そういえば、智くんってもうすぐ日本に一時帰国するんだよね。いつからだっけ?」
これ以上突っ込んで聞かれたくなくて、私は話を無理やり変える。
急に話を変えられてやや眉をひそめた智くんだったが、すぐにいつも通りに戻ると、会話を続けてくれた。
「来週からだよ。2週間くらい滞在する予定だから、しばらく環菜に会えないね。戻ってくるのはクリスマス前くらいになると思うよ」
「そうなんだ。結構長期間なんだね。でもそう思うと早いな~。もうクリスマスなんだぁ」
あのスキャンダルはちょうどクリスマス前の12月上旬だった。
つまり、私が女優として世間から消えてもう1年が経つわけだ。
早いような長かったような不思議な期間だった。
「ヨーロッパではクリスマスってどうやって過ごすの?カナダにいた時はその日はどこもお店が閉まって、みんな家族と過ごすホリデーって感じだったけど」
「ヨーロッパも同じようなものだよ。あと、ヨーロッパの場合はこの時期クリスマスマーケットが有名かな」
「クリスマスマーケット!聞いたことある!日本でも真似して駅前広場とかで開催してた気がするなぁ」
「それよりももっと本場は規模が大きいと思うよ。有名どころだと、フランスのストラスブールとかコルマールかな。プラハも特別大きなものではないけど旧市街広場がその時期クリスマス仕様の雰囲気になるよ」
「素敵だね!ストラスブールは前にテレビで見たことがあって行ってみたいと思ってたの!フランス最大のクリスマスマーケットなんでしょ?智くんは行ったことある?」
日本にいた頃も、ライトアップされているような人が集まるところにはなかなか行くことができなかった。
車の中からイルミネーションを見ながら歩くカップルを羨ましく見ていた私なのだ。
ヨーロッパのクリスマスに想いを馳せて、思わず目をキラキラさせてしまう。
そんな私を目を細めて見つめていた智くんが思い付いたように言った。
「僕もストラスブールは行ったことないな。今年のクリスマスに一緒に行ってみる?クリスマスは仕事も休みになるから問題ないと思うよ。どう?」
「行きたい!」
食いつくように私は即答した。
皆川さんの登場に一時心を乱されたものの、今の私には新しい生活があって、智くんがいて、幸せなのだ。
この幸せな偽りの生活が終わりを迎えるまでは、ただ彼のそばで笑っていたいと強く思った。