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「環菜さんお久しぶりです。息抜きがてらクロワッサン買いに来ました!」
渡瀬さんが疲れた顔でカフェにやってきたのは、12月に入ってすぐのことだった。
智くん同様に忙しいのか、いつも明るい笑顔の渡瀬さんの顔には疲労の色が滲んでいる。
「渡瀬さんも今忙しいんですか?智くんも明後日から日本へ行くにあたってバタバタしてるみたいで」
「僕は日本での会議には出席しないんで桜庭さんほどじゃないんですけどね~。やっぱり直前は大詰めで忙しいです。なんで、気分転換に美味しいクロワッサンでも食べようかと思って!」
「そうなんですね!いっぱい食べて元気チャージしてくださいね!」
注文されたクロワッサンを袋に詰めて、激励の言葉を投げかけながら渡瀬さんに手渡した。
渡瀬さんは御礼を言って、マフラーをぐるぐる巻きにして寒さ厳しいプラハの街に消えて行く。
本格的な冬が到来した12月のプラハは、冷たい風が吹いて身体の芯から凍える寒さで、帽子・手袋・マフラーが手放せない。
一方で室内は暖房がしっかり効いているので暑いくらいだった。
(明後日には智くんも日本に行っちゃうのか。しばらく会えないのは寂しいなぁ。でも戻ってきたらクリスマスは一緒にストラスブールに行く約束してるもんね!楽しみ!)
私はクリスマスのことを思い浮かべ、ワクワクする気持ちに心が占領される。
クリスマスに仕事以外で誰かと一緒に過ごすなんて何年ぶりだろうか。
今から楽しみで仕方なかった。
しばらくして同僚と交代でバックヤードで休憩を取る。
休憩が終わり店内に戻るとマネージャーが少し困った顔で私の方へやって来た。
『環菜、悪いんだけどあそこに座ってる男性を対応してくれない?』
マネージャーの視線を追ってチラリとそちらを見ると、人がまばらな店内のイートインスペースに一人の男性が座っていた。
どうやらアジア人のようだ。
『どうしたんですか?』
『なんかね、英語もチェコ語もできないアジア人のようなんだけど、店に来るなり、「Japanese はいるか?」って一言だけ英語で何度も繰り返すのよ。たぶん日本人だから環菜なら話が通じると思うの』
それを聞いて変な人だなと思った。
「Japanese はいるか?」という言葉だけ英語で話すなんて、まるでその一言だけ覚えたような感じだ。
日本人だということで警戒する気持ちはあったが、マネージャーにこう頼まれては断ることもできない。
私はかけていた眼鏡を無意識に掛け直すと、その男性の方へ向かって行く。
「あの、失礼します。日本人をお探しだって聞いたんですけど。何かお伺いしましょうか?」
男性のそばに歩み寄り、日本語で声をかけてみる。
その言葉に反応して男性がこちらを振り向き、私を視界に入れた途端にニマニマとした下品な笑みを浮かべた。
その表情を見て、瞬時になんとなく嫌な予感がよぎり、背筋にジトリと嫌な汗を感じた。
「へぇ、あんなのガセネタだと思ったら、意外や意外。本当に当たりだったとは。お元気ですか?神奈月亜希さん?」
「‥‥!」
眼鏡で印象を変えていたのに効果はなかったようで、その男性は鼻から私がここにいることを知っていたかのような口ぶりだ。
驚きと恐怖で、私の顔からはどんどん表情が抜け落ちていく。
「そんな怯えた顔しないでくださいよ。僕はこういう者なんですけど、お話聞かせてもらえますか?」
そう言って40代半ばくらいに見える軽薄そうな印象のその男性は、ふところから名刺を取り出して私に渡す。
名刺を見ると、やはりというか、男性は週刊誌の記者だった。
しかも1年前のスキャンダルを報じた文秋に所属しているようだ。
「‥‥どうしてここが?」
「俺はね、フリーの記者なんですよ。だからどんな小さなネタも根気よく追ってるんですよ。ある時、たまたま見つけたツイートにあなたがプラハにいるっていう情報を見つけてね。全然バズってない一般人がちょっとつぶやいたみたいな小さなものだったけど、気になって相手にDMしたらこの店を教えてもらいましてね」
「‥‥」
そう言われて、夏の観光シーズンにお店に来たあの時の2人組の女性のことが脳裏に蘇る。
きっとこの記者が言っているのは、あのツイートのことだろう。
拡散されていなかったから大丈夫と判断していたが、まさかこんな形で繋がってしまうとは驚きを隠せない。
皆川さんが言っていた事務所に訪ねてきた人もこの記者かもしれないと思った。
「さすがに俺もあなた一人を追いかけてプラハまで来るつもりはなかったんですよ。そんな予算もないですし。そしたら、たまたま今になって別件でヨーロッパに取材が入ったんですよ。それならついでにあなたのネタの真相も探ってみようかと思いましてね」
ニマニマとした人を馬鹿にするような嫌な笑みがどんどん私を追い詰めていく。
まるで蜘蛛の巣に引っかかった私を、獲物を狙っていた蜘蛛が絡めとっていくようだ。
「それで神奈月亜希さんは、あのスキャンダルの後、こちらに逃げて来たんですか?こちらでも今度は外国人を相手に男漁りをされてるっていうのは本当ですか?」
「‥‥いえ、それは事実無根です」
「本当ですか?清純派で売ってたあなたは、あのスキャンダルが出るまで多くの人を騙してたんですよ。騙すのはお手のものですよね?」
「‥‥そんなことはないです」
一瞬、騙すという言葉に胸が痛む。
よく考えれば、婚約者のフリをしているのも、演じながら周囲の人を騙しているようなものだ。
私はこの記者の言うように、人を騙してばかりの最低な人間なのではないだろうか。
思考が悪い方へ導かれ始めた時、ふいに「環菜」と英語で声をかけられる。
常連客のジェームズさんが私の尋常じゃない雰囲気を察して、割って入ってくれたようだった。
『大丈夫かい?日本語で会話しているから内容までは分からなかったけど、なんだか不穏な空気を感じて思わず声をかけてしまったよ』
『心配させてすみません‥‥』
『さっきマネージャーに聞いたら、彼は英語が分からないらしいじゃないか。困っているなら英語で捲し立てて追い払ってあげようか?』
チラリとマネージャーに目を向けると、彼女は心配そうにこちらの様子を伺っている。
自分が対応して欲しいと頼んだから、私の様子がおかいしいのを見て、責任を感じているのかもしれない。
『もし可能だったら助けてもらえると嬉しいです‥‥』
『もちろん。任せておいて』
私は理由も言わず、ただそう言っただけなのだが、ジェームズさんは何かを察しているのか即答してくれた。
記者はやはり英語は全くできないようで、私とジェームズさんの会話もポカンとした表情で聞いていた。
ジェームズさんは、私から記者へ視線を移すと、紳士的な雰囲気を醸し出しながら早口な英語でペラペラペラと話しかける。
記者の男性はギョッとしたように目を丸くし、狼狽すると私に助けを求めるように日本語で話しかけてきた。
「ちょっと、彼はなんで俺に話しかけてきてるんですか?何を言ってるんですか?」
「さぁ?あなたとお話がしたいらしいですよ」
言葉少なに返事をし、あいまいに微笑む。
その間にもジェームズさんは追い立てるように、記者へ英語で途切れることなく話しかけていた。
「なるほど、こんな年上の外国人まで骨抜きにしてるわけですか。さすがですね。いいネタになりそうですよ」
そう言い捨てると、記者は止める間なく素早くスマートフォンで私とジェームズさんの写真を撮ると、逃げるように立ち去った。
『ジェームズさん、ありがとうございました。助かりました。それに最後写真まで撮られてしまって‥‥。ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません』
『環菜のせいではないよ。それに気にしないで大丈夫。僕はこれでも結構色々なツテと権力があるからね』
ジェームズさんはウインクしながら冗談めかしてそう言った。
私が気に病まないようにあえて軽い口調で話してくれているのだろう。
『とりあえず、いつものコーヒーとクロワッサンを持ってきますね。座ってお待ちください』
『ありがとう。そうさせてもらうよ』
ジェームズさんに席を勧め、私はカウンターの方へ戻る。
待ち構えていたようにマネージャーが近寄ってきた。
『環菜!大丈夫だった!?ごめんなさいね、私が頼んだから。何を話しているのかは分からなかったけど、環菜の顔色がどんどん悪くなっていくものだから心配で。まるで夏頃に体調を崩した時のようだったから』
『心配かけてごめんなさい。マネージャーがジェームズさんに頼んでくださったんですか?』
『ええ、ちょうどいらっしゃったから。男性の方がいいだろうと思ってね』
彼女の機転には感謝だった。
おかげで錯乱状態になるのを防げたように思う。
でも今回のことで私はあることを決意していた。
『マネージャー、あとで少し話があります。お時間いただけませんか?』
『ええ、それはもちろんだけど』
私の決意を秘めた顔に何かを感じ取ったのか、マネージャーはそれ以上その場では何も聞かず、私たちは通常通りの仕事に戻った。
その日の仕事を終えると、私はマネージャーと話をしてから帰路に着く。
智くんは今日も遅いのか、まだ家に帰っていないようだった。
私は自分の部屋に入り、今日の出来事を思い返す。
同時に、決心が鈍らないよう、昼間に決意したことを反芻《はんすう》する。
私の決意、それは智くんに素直に自分の気持ちを伝え、この偽りの婚約者役を終わらせることだったーー。