実家に帰ってきてもうすぐ10日。
すっかり体調も戻った母。
食欲もあるし、明日にはお父さんも帰るというので、滞在は今日までにする。
オンラインで顔を見てから3日。
あれから響は忙しいのか、電話しても直接は話せなかった。
「お母さんの体調が戻ったから、明日帰るね」
メッセージで残しておくと、響から遅い時間に今帰ったという返信が届いていることに、朝になって気づく。
帰ったら、少しはゆっくりできるかな…
仕事なんだから仕方ないけど、でも実は私…
響にくっついて、甘えたかった。
その先に、旅行で2人きりになったときの続きがあってもかまわない。
もう、怖くない。
もっともっと、響と近づきたい気持ちの方が大きくなっていた。
翌日、帰ろうとする私に、母が郵便物を持ってきた。
「琴音、これ…FUWARIコーポレーションからみたいよ?」
受け取ってみれば、それは間違いなく内定をもらっている会社だ。
FUWARIコーポレーションは、私のバイト先だったカフェの運営会社。
響が私を見つけて連れ去って、その後勝手に辞めさせられたあのカフェだ。
私は来春、そこに就職が決まっていて、来年早々にも入社前の懇親会などがある予定。
今頃封書が届くなんてあまり聞かないけど…もしかしたらそんな案内かもしれないと、私は郵便物を持って響のマンションに帰った。
…………
「…なに、これ」
マンションに戻って、FUWARIのロゴが印刷された封筒を開けて中を確かめて、出てきた1枚の紙に書かれた文章に背筋が凍る。
『諸事情により、石塚琴音の就職内定を取り消します』
…どういうこと?
ヒュッ…と、喉が詰まったように感じる。
無機質な印刷の文字。
差出人は、代表取締役社長、来栖川啓太郎。
…玲の父親だ。
「…なんかの間違いじゃないの?人事に電話して聞いてみた?」
「ううん…まだ」
「響さんには?」
「…まだ」
電話の相手は、真莉ちゃんだ。
「…すぐに連絡取ってみな?お前の将来に関することだろ?響さんが知らん顔するはずないんだから」
そう言いながら、手違いに決まってる…と言う真莉ちゃん。
「武者小路グループから、俺にそんな通達が来たら、あり得るかもって震えるけどな?」
響さんのド嫉妬買ったしなーと、真莉ちゃんは呑気に言って笑った。
「だよね…じゃ、私も手違いかな?とりあえず、いろいろ聞いてみるよ」
その日も、遅くなってから帰った響。
「ただいま…」
ふぅ…っとため息をついてネクタイを緩めながら、私に覆いかぶさるように抱きしめてきた響。
「おかえりなさい」
私の頭を撫でてくれて、響はドサッとソファに座る。
…なんだか疲れてそう。
夕ご飯を温めてあげようと離れながら、ふと、響の腕が目に入った。
Yシャツをまくり上げた袖から覗く腕は、血管が浮いていて、程よい筋肉に覆われている。
…あの腕に自分が抱きしめられたのは、もしかして夢だったんじゃないかと思う。
なんだろ…ちょっと寂しぃ…
疲れていそうで、私の話をしてもいいかな…なんてちょっと考えてしまう。
でも、真莉ちゃんが言うように、響が私の話を面倒に思うなんてあるはずない…。
そこで、響にFUWARIコーポレーションから届いた書面を見せて、聞いてみた。
「内定を取り消されるなんて…そんなこと実際にあるのかな…」
心当たりといえば、玲にいきなりキスされて怒ったことくらい。
それが後継者候補の心を傷つけたから、内定取り消し…??
そんなまさか。
玲は2代目とはいえ、まだ学生の身…
どこでどんな行動をしているか知らないけど、この間パーキングで見かけた女の人との親密さを見ても、トラブルの種はたくさん持っていそう。
だから、キスされて怒ったくらいで内定取り消していたら、新入社員いなくなるって話だよね?
それにあれはあいつの方から勝手にしてきたことなんだから、こっちが怒るのは当然のことなんだから…
私から書面を受け取って、じっくりそれを見つめる響に、そんな考えを言った。
「まさか…私が玲を侮辱したから…とか?」
そんなはずないよね…と言いかけた時、信じられない言葉が飛び出した。
「俺がそうしろって言った」
「…え?」
どういうこと?
なんで響が?
「…響が私の内定取り消しを…申し出た…ってこと?」
「そうだ。俺が玲に、琴音をFUWARIコーポレーションへは入社させない、と言ったんだ」
どうしてそんなことを…という当たり前の言葉が出てくるまで、時間がかかった。
「…もしかして、ヤキモチ?」
冗談だよ…と言ってくれるような気がして、わざと茶化した。
「…琴音にFUWARIは合わない」
眉間にシワを寄せた響が言う。
「なにそれ…何も知らないくせに…」
「今回は、俺の言う事を聞け。あの会社は…」
今回は…じゃない。
再会してから、バイトも全部辞めさせられたけど?
「私だって、就活の時、ちゃんと見極めてFUWARIを受けたの!そのうえで就職を決めたの!」
「…琴音にそこまで出来るとは、到底思えない」
「…なにそれ…バカにしてるの?」
「違う。俺が言いたいのは、普通は知り得ない情報を、一般的な学生が掴めるはずはないと言いたいんだ」
一般的な学生…
どうせ私は、響や優菜ちゃんとは違う、一般的以下の人間ですよ…
つい、自分を卑下する思いが胸をかすめる。
「響なんて、この10年の私のことなんて、なんにも知らないくせに…」
呟く私に、響が厳しい目を向けてくる。
「それは、俺だってすごく知りたかったことだ!でも仕方ないだろう。探し出せなかったんだから…」
違う…っと、拳を握りしめる。
「私がFUWARIコーポレーションに、あのカフェでの仕事に、どれだけの思いを持ってやってたか知らないでしょ?響との抜けた10年の中で、私だっていろいろあったんだから」
家計を助けようと、高校生になって初めてバイトしたのが、FUWARIが運営するカフェだった。
本部から社員さんが来てくれて、研修を受けた。
家の事情を話したら、優先的にシフトを入れてくれたのも、エリアマネージャーの社員さんだった…。
あのカフェが好きだった。
初めてバイトをした思い出の場所だった…。
今度は私が社員になって、いろんな思いを持ってFUWARIに関わる人と、会社を繋げたいって思っていた…。
泣き出した私に、深くため息をついて、触れたい…と思った腕が伸びてきた。
「玲と話して…内定取り消しは、琴音のためになると判断したことだ」
玲…と聞いて、ハッとした。
「やっぱり、嫉妬とかそういうことじゃないっ!…響のこと好きって言ったでしょ?信じてないの?」
「そうじゃない!…すべてを今話すわけにはいかないんだ。とにかく、FUWARIへの入社は諦めろ」
そう言って強まる腕の力を、渾身の力を振り絞って解いた。
「…バカっ!響なんて…嫌い!大っ嫌い!」
そう叫んで部屋を出ていこうとして、響の冷たい声が追いかけてくる。
「…父親を助けてやった恩を忘れたわけじゃないだろうな?」
悔しいけど、そう言われると、出ていけない。
私は寝室に入って、ドアを思いっきり強く閉めた。
そしてクローゼットに収納された響の服を、怒りに任せてベッドの上にぶちまける。
空いたスペースにうつ伏せになって悔し涙を流しながら…
就活に励んでいた頃を思い出す。
自分が社会に出て、何ができるのか…適性とか能力とか、何もないように感じて焦る毎日だったけど、いつしかFUWARIで仕事がしたいと思うようになって…。
「内定をもらって…嬉しかったのに…」
響がダメだと言ったら、白も黒になる。
その計り知れない影響力が、少し怖い…。
コメント
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琴音ちゃん、わかるけど…仕事と恋は別だよ?そんな理由だったら両会社とも終わってるよ。響の言葉聞いてた? 少し落ち着こう。そして落ち着いて響が話せる、言えるところまで話してもらおう!ね🥺