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ユカリが杖を構えつつ男の元へ駆け出すとソラマリアも影のようにそれを追う。ユカリたちの方に鈍い歩みを向けていた死者たちも少しずつ方向を修正し、太陽を仰ぐ向日葵のようにユカリたちに顔を向け続ける。
男は逃げ惑っているようだ。まるで酔っ払いが地下迷宮にでも迷い込んだかのようだ。足がもつれているような、道に迷っているような、そんな歩みで死者たちの間を行き交っている。死者の歩みはあまり速くないが、川の流れのように留まることを知らず、また凶器の溢れた平野のあちこち、あらゆる方向から迫ってくるために適切な逃げ道はあまり多くない。
その男の奇妙な逃げ方が呪いに対する正しい作法である可能性がユカリの脳裏をよぎったが、助けようとしたために邪魔することになるのではないか、という考えまでは思いつかなかった。
「待て」杖を出して跨ろうとしたユカリをソラマリアが呼び止める。「弓持ちが何人かいる。素養があるのか知らないが、念のために道を開く」
ソラマリアがユカリを追い越し、冷たく堅い氷の剣を形成し、死者の胴へ斬り上げるように強かに打ち込む。死者の鎧は氷の剣を打ち砕くが、ソラマリアの尋常ではない膂力を受け止めきれず、呪われた体は弧を描いて吹き飛ばされた。ソラマリアは新たに五本の投げ槍を生成し、次々に投擲する。その全ての槍が鋭い穂先を死者の胸に食い込ませ、転倒させた。その全員が弓を取り落とし、体勢を立て直そうともがく。
好機とばかりにユカリは杖と共に舞い上がり、男の方へと飛んで行く。逃げながらもユカリたちの方を気にしていた男は意図を察し、今か今かと待ち構えている。
「いま助けます。手を」ユカリが降下し、手を差し伸べると男はその手を取り、二人は再び宙へと舞い上がる。
「すまない。助かった」男は汗に濡れた手でユカリの手にすがりながら揺れる。
死者たちの少ない場所に目途をつけ、ソラマリアを誘導しようとそちらへ目を向ける。そして目を疑う。ソラマリアの魔導書の衣装が消え、元の姿に戻っていた。そうして愛用の、しかしありふれた剣でもって死者たちの猛攻をさばいている。死者たちもまた呪いのためか人間離れした力でソラマリアに躍りかかっているが、たった一人の剣士を相手に一太刀も浴びせることなくばらばらに切り分けられている。幼い子供が空想の敵兵を薙ぎ倒すかのような呆気なさだ。
「ソラマリアさん! この人の足を掴んでください!」
「空気はもつのか!?」
「早くつかんでくれれば!」
ソラマリアが男の足をつかむと再び上昇する。千切れそうな腕に顔を顰めつつ、死者たちとの相対速度と空気の残量に気を配りながら移動し、比較的混雑していない場所へと降り立つ。
「なんで衣装を消してるんですか!?」
地上に戻るとすぐに足早に死者たちから逃げながら、ユカリは早速ソラマリアの愚行を責め立てる。
「いや、倒しても倒しても起き上がって埒が明かなくてな。四肢を落とすしかないと考えたが、魔法の氷ではさすがに武装ごと切り裂けない。切り裂けたとしても剣の生成が追い付かない。かといって変身した時に鋼の剣は消えてしまったから変身を解くほかなかったんだ」
「剣を体から離して、所持していない状態なら変身しても消えませんよ」
「そんな方法があったなんて知らなかった」
少しばかりユカリの目がひらひらと舞う。「教えてなかった、かもしれません。すみません。でも、それにしたって迂闊です。でも、ともかく歩く死者にならなくて良かったです、本当に。何か条件があるんでしょうけど、運が良かっただけですよ」
言いたいことを言うとユカリは改めて助けた男を見やる。
窶れた大地クヴラフワにあっては珍しい小太りの男だ。シシュミス教団の神官とは異なる衣装も比較的立派な仕立てで比較的清潔なように見える。小ざっぱりした印象かつ少なからぬ威厳もあった。人生の秋を迎えつつも精力の衰えを感じさせない。老獪さを伺わせる鋭い眼差し、どこか貴き気品を秘めた鼻梁、深く刻み込まれた皴は谷風を浴びて折れずに堪えた巨木の如き強靭な精神を思わせる。
「いったい、あんたたちは何者だ?」と男は訝しむように尋ねる。「教団の連中には見えないが。カードロアに何の用だ?」
まさに目指している街の名前が出てきてユカリは少し違和感を覚える。そのような会話を続けながら突き進んでいるが、まだ街の影も見えない。
「なぜカードロアへ向かっていると分かったんですか?」とユカリは率直に尋ねる。
「向かう?」そう呟いて男は目を細める。「そうじゃない。お前たちは既にカードロアに踏み入れているんだ。ここがカードロアだ。四十年前に大王国や機構に踏み潰されたがな。ここから見える四方の地平線全て、いや、さらにその向こうまで我らの偉大なる街は広がっていた。全て、露と消え失せたがな」
ユカリは男の言葉を受け、もう何度目かも分からないが辺りを見渡す。錆びて壊れた武具の他に人工物は欠片も見当たらない。痩せ細った下草に灌木、今にも消えそうな存在感の薄い木立、穴蔵で暮らす獣の影や疲れた様子の鳥、そして命を失ってなお歩かされる死者たち。見るべきものは何もない。誉れ高き戦勝の栄華も、尊き神の祝福も、気高き王を寿ぐ楽の音も、折り重なった歴史を語る石の建築も、人の寛ぐ涼しげな貯水池も何もない。
それが本当だとして、という言葉を呑み込み、「いくら四十年が過ぎたって土に還るには早すぎますよ。どうしてこんなことに?」とユカリは尋ねる。
「何も不思議なことはない。ただそれほどに苛烈な戦場だったということだ。今でも目の奥に焼き付いている。畑を踏み潰す悪辣な行進。無慈悲に人々を薙ぎ倒す騎馬。王城も神殿も躊躇なく打ち崩す投石機。豪雨のように降り注ぐ矢、そして轟く雷。岩をも溶かす炎。形容しがたい無数の魔術、呪い。文字通りカードロアは灰燼に、いや、砂塵に帰した」
「よく生き延びられたものだ。何者だ?」少し遅れてついてくるソラマリアが尋ねた。
「まだ名乗っていなかったな。私は幸福の指先。栄光あるケドル侯国の主にして首都カードロアの君主、巨剣片腕を奉ずる巫女産みの家系の末裔だ」
ソラマリアは特に感想も述べずに名乗り返す。
「私はソラマリア。そっちはユカリだ。教団の者ではないが、理由あってクヴラフワを調査している。他に生き残りはいるのか?」
パジオは責めるような沈黙を作る。少しくらいその華麗なる生まれに触れるべきだったのだ。ユカリはソラマリアの方を振り返るが、その真面目な表情を見るに嫌味で無視したわけではないらしい。
「この四十年で減る一方だ。この先で僅かな瓦礫を集めて作った砦に身を寄せている」
パジオの声は少し刺々しかった。
「そうだった」ユカリは話題を変える。「そもそもここの呪いは何なんですか? どういう条件で死者は歩くようになるんですか?」
「そうだな。先に説明すべきだった。まず、そもそも死者に限った話ではないから君たちも気を付けろ。少しでも傷つき、血を流すとああなってしまう。体の自由が奪われて、呪われていない他者を襲うようになるのだ。彼らも元は生きていたが、互いに殺し合って死者になった」
「つまりああやって武具で襲わせて怪我をさせて、怪我した者は呪いに憑かれてを繰り返して、これだけの数になったんですね」
パジオは首を横に振る。
「いや、武具に限った話じゃない。そもそもはこの土地が呪われたのだ。何か物によって傷つけられたなら呪われる。人間の体、爪や歯で傷ついても呪われんが、この土地にある物で傷つけば呪われるのだ。教団は『虚ろ刃の偽計』と呼んでいたな。君たちも気を付けてくれ。まず体が痺れ、口が利けなくなる。そして……」そう言ってパジオがちらと振り返り、形相を凍らせる。「まずい」
その鬼気迫る声と表情を察し、ユカリは素早くパジオに肩を貸して杖に乗って舞い上がる。空を切るような不吉で重い音がすぐ耳元で聞こえるが、振り返ることなく高く高く舞い上がる。その人間離れした跳躍力をユカリは身をもって知っている。今のがクヴラフワに入ってから最も危険な瞬間だったかもしれない。ユカリは安心できる高さまで昇って地上を見下ろす。ソラマリアが虚ろな表情で空を見上げているのが見えた。
魂無き人形の顔だ。栄光無き敗走者の顔だ。