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始業のチャイムが鳴るより前に、遥は教室にいた。制服の襟は乱れていたが、誰も注意しない。
というより、“それを話題にする”という空気すら、必要とされていなかった。
教室の空気は、いつもと変わらなかった。
だが遥には──全員が笑っているように見えた。
机に座ると同時に、誰かが肩を叩いてきた。
「おかえり、昨日どうしたん?」
軽い口調。だが目は笑っていない。
「ズルいよな、逃げた分、こっちが補填したのに」
「そーそー。だから、今日ちょっと多めでも文句なしな?」
背後から、左右から、次々と声が降ってくる。
逃げ場は、最初から存在していない。
「ま、オレら“仕方なく”だったけどな?」
「ほんとほんと。嫌々やらされて〜」
「なあ、どうやったら泣くのか、教えてくんね?」
「録音してたら、前回のと合わせて特典CD出せんじゃね?」
口々に放たれる言葉は、冗談とも本気ともつかない。
けれど、遥は知っていた。
これは、“罰”だった。
──学校を休んだ罰。
──順番を崩した罰。
──何より、「痛みを独占した」罰。
遥の体はまだ完全に動かない。
背中には昨日の打撲が響いていたし、脚は階段すらきつかった。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
逃げたら、もっと酷くなる。
それは昨日、思い知ったばかりだった。
ホームルームの後、掃除時間。
机を持ち上げようとしたところで、背後から声が落ちてきた。
「……なあ、お前んちってさ」
静かな声。だが、確かに聞こえた。
遥の指先が、わずかに震えた。
日下部が、教卓の横でモップを振りながら、何気ない顔をして続ける。
「なんかさ、昔と変わってないよな。……家とか」
遥は声を出さなかった。
出したら、そこで何かが決壊しそうだった。
「……昨日も、ちょっと言いかけたんだけど。……どうしよっかなーって」
笑っているような声。
「オレ、けっこう口軽いほうだからさ、気をつけてね?」
──その瞬間、遥の視界が滲んだ。
涙ではない。怒りでもない。
「恐怖」と「諦め」と「自己嫌悪」が、同時に喉を塞いだ。
日下部の笑い声が遠ざかる。
遥は掃除道具を持ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。
汗が、背中を伝っている。
心臓の音が、耳の奥で鳴っていた。
“頼む……言わないでくれ”
──声には出せなかった。
けれど確かに、遥の目が、そう言っていた。