雨の降りそうな曇り空の下、校舎裏はひどく静かだった。授業のチャイムが遠くで鳴っても、あたし――ないこはそこから動く気になれなかった。
胸の奥が、ずっと焼けるみたいに痛かった。
痛いのに、どこか心地よい。
だって、その痛みは全部、まろのことを考えている証拠だから。
「……まろ」
名前を口にすると、息が震えた。
あたしは今日こそ言うと決めていた。決めていたのに、制服の袖を握る指は汗ばみ、喉は乾いて、心臓だけが勝手に先走って動いていた。
そこへ、いつもの足音が聞こえる。
軽くて、跳ねるようで、まろらしいリズム。
「ないこ、こんなとこでなにしとんねん。サボり癖ついたらあかんで?」
声を聞くだけで、世界が色づくみたいだった。
まろが近づいてきて、あたしの顔を見るなり眉を寄せる。その仕草ひとつでさえ、かわいくてかわいくて、胸が苦しくなる。
「……顔色悪いなぁ。うち、なんかした?」
「違うの。まろじゃない……まろのせいじゃないよ」
「ほなら何が……」
あたしは思わず、まろの手を掴んでいた。
自分のものじゃないみたいに、震えた指がまろの手を絡め取る。
まろの目がほんの少しだけ揺れた。
「あたしね、まろのこと……」
言いかけた言葉は、喉でひっかかって出てこなかった。
でも、もう止めるつもりはなかった。
今日だけは、もう後戻りしたくなかった。
「ずっと……好きだったの。気持ち悪いって思われても、仕方ない。でも、まろの全部が欲しくて……」
まろの目が丸くなる。
逃げようとしていないことに、あたしは救われた。この瞬間だけで、生きてきた意味があると思った。
「ないこ……」
「笑わないで。あたし、本気なんだよ。まろの笑い方も、声も、指先も……全部、全部、あたしだけが知っていたいの」
言ってしまった。
口にした瞬間、胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
まろは少しの沈黙のあと、ゆっくりあたしの頬に手を添えた。
温かくて、優しくて、思わず目を閉じそうになる。
「……うちは、そんな器用やないよ。誰か一人だけ見るんも、そんなん考えたことなかった」
「うん……」
「せやけどな、ないこ。うちの名前呼ぶときの声……なんや、嬉しそうやから、ちょっと……気になっては、いた」
胸が跳ねた。
「だったら……」
言いかけたとき、まろが困ったように笑う。
その笑顔が好きで、好きで、あたしは堪らなくなった。
「でも、ないこ。うちは、まだ“答え”なんて簡単に出されへん。友達から急にそんな……」
ああ――その言葉がいちばん聞きたくなかった。
目の前がぐらりと揺れた気がした。
「……やだ」
声が震え、まろの手を強く掴んでしまう。
「やだよ……まろ。そんな言い方しないでよ……」
「な、ないこ?」
「時間かけるって言うんでしょ? ゆっくり考えるって……その間にさ、まろが誰かと笑ってたりしたら、あたしどうすればいいの?」
心臓が破れそうだった。
怖かった。
失うのが、たまらなく怖かった。
気づけば、あたしは制服のポケットを握りしめていた。
その中には、昨日からずっと隠していた小さな折り畳みのナイフが触れる。
まろの手が、あたしの頬からそっと離れていく。
離れないで。
その一瞬で、胸がドクンと痛む。
「……ないこ、それ、なに持ってんの?」
まろの視線が、あたしの震える指先に落ちる。
しまった、と思うより先に涙が溢れた。
「違うの……違うの、まろ。傷つけたいんじゃない……ただ……」
ただ、怖かっただけ。
まろが誰かに奪われる、そんな未来が。
「うちは逃げへんよ」
まろは震えもしないで、あたしの両手を包み込んだ。
「ないこが怖いと思う気持ちも、うちが全部受け止めたる。せやから、刃物なんか置き……」
「まろが……あたしの全部を見てくれるなら……」
涙が落ちた。
「うちは見る。ちゃんと見る。せやから、ないこ……」
そのときだった。
握っていたナイフが、震えのせいでわずかに滑った。
刃が制服の布をかすめ、赤い線が走った。
「っ……!」
まろの体が少しのけぞる。
あたしは、すぐにナイフを手放した。
地面に落ちた金属の音が、世界を裂いたみたいに響いた。
「まろ、ごめ……」
「大丈夫、大丈夫や。浅い……ちょっと擦っただけや」
まろは笑おうとした。でも、その顔は少しだけ痛そうで、その痛みすら愛おしく思ってしまう自分が怖かった。
まろはあたしの頬を両手で包む。
「ないこ。うちは怖がってへんよ。むしろ……そんな必死に思われて、胸がぎゅっとなるくらいや」
「……まろ」
「せやから、いまはこれでええ。答えは急がへん。でも、ないこから逃げへん。うちも、あんたと向き合う」
涙で滲んだ視界の中で、まろが笑った。
その笑顔に、あたしの心は完全にほどけた。
――でも同時に、この気持ちはもう戻れないところまで来てしまったんだと思った。
まろの手を包み返した指は、まだ震えたままだった。
あたしは、きっともう普通には恋できない。
まろじゃなきゃだめなんだ。
雨がぽつりと落ちてきた。
ふたりの頬に同じしずくが落ちる。
どこに向かうのかもわからない、痛いほどの恋の道。
その入り口に、あたしたちは立っていた。
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