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窓を流れる雨の滴が徐々に繋がり、一筋二筋と流れを作り出した事に二人が気付いたのは、本人曰く壁に喧嘩を売った結果、皮膚が裂けて血が滲んでいた拳を、驚くほど器用に動く武骨な大きな手が消毒をし、外の雨と同じように手の甲を伝い手首にまで流れ落ちていた血を拭き取った頃だった。
手当てをする必要はない、役に立たない手なのだからと、ソファに座りながら己の手当てをするリアムに偽悪的な笑みを浮かべた慶一朗だったが、さっきも言ったがお前の手が役に立たないとは思わないと実直な言葉を返されてそれ以上自らを悪く言う言葉を出せずに口を閉ざしてしまう。
今、黙々と傷の手当てをする、隣のフラットに暮らす人の好い友人、リアムは、己の手が必要だと言ってくれるが、両親の虐待によって運ばれてきた子供を助けることも出来なかったのはこの手が役立たずだからとしか思えず、そんな役に立たない手が傷を負ったからといって手当てをする必要性が理解できなかった。
だから必要ないと三度手当てを拒否するような言葉を口にすると、本人の意思を無視するように指を曲げろと指示されて大人しくその言葉に従って指を一本ずつ折り曲げていく。
曲げて伸ばす、その当たり前の行為が当たり前に出来ている事を確認し、胸を撫で下ろした顔に小さな安堵の笑みが浮かんだのを慶一朗は見逃さず、どうしてそこまで嬉しそうに笑えるのかとの疑問が芽生えるが、消毒したことで露になった傷口を覆うためのパッドを救急箱から取り出したリアムが、傷口だけを見ながらポツリと口を開く。
「優秀で沢山の人を救ってきた手なんだ、役立たずなはずがない」
だから、さっきも言ったが悲しいからと己の非力さに自傷するなと傷パッドで手の甲を覆い、労わるようにそっと撫でたリアムが肩を竦めて顔を上げ、その視線の強さとヘイゼルの双眸に浮かぶ色に慶一朗が身体を竦めてしまう。
「自分で自分を傷付けるな。必要以上に自分を卑下するな」
お前は、お前が思う以上に優秀だし誰かの役に立っているのだからと、偽悪的な自嘲の声に苛立ったようにリアムが口調を強くし、慶一朗がその視線の強さに俯いてしまう。
「・・・何か飲まないか?」
ここが自分の家なら黙って飲み物の用意ができるが、さすがに友人の家でそれをするには図々しいと肩を竦めて立ち上がるリアムの耳に、飲み物といってもビールか水しかないと、己は本当に何の役にも立たないと言いたげな声が小さく流れ込み、盛大な溜息を一つ吐いたリアムは、再度慶一朗の前に胡坐をかいて座り込むと、俯いている端正な顔を上げろとさっきとは違う優しい声で命じ、辛抱強く顔が上げられるのを待つ。
「・・・・・・」
「やっと顔を上げたな」
どれほど時間が経ったか分からないが、ようやく慶一朗が顔を上げた時、心底嬉しいと言葉ではなく表情で語るリアムの顔が間近にあり、少し驚いた端正な顔に愛嬌のある男の顔が嬉しそうに笑いかける。
「そのままずっと俯いているのかと思った」
人間、下を向いてばかり生きていられないし、何よりも楽しいことや素敵なことを見逃してしまうからもったいないぞと笑うリアムに、口を一度開いて閉じた慶一朗は、いつもならば皮肉であれ戯けた言葉であれすぐに返せるのに、どんな言葉も思い浮かばずに目を見張ってしまうと、お前の話を聞くけれど喉が渇くだろうから何か飲まないかと、頬杖をついて顔を支えながら笑うリアムに黙ったまま頷く。
「・・・水かビールが、ある」
「そうか。ケイは・・・ビールだな」
「え? あ、ああ・・・」
「イチローが帰る前に、あいつはコーヒーとビールで出来てるって笑ってたからなぁ」
だからビールを飲むのだろうと予想したが、大当たりだなと笑いながら立ち上がるリアムの動きを顔全体で追いかけた慶一朗は、いつ己の兄とそんな話をしたんだと小さく問いかけると、総一朗がメッセージアプリの連絡先を教えてくれた、色々とお前の話を聞いていると、隠し事がバレた子供の顔で笑われて絶句してしまう。
双子の兄、総一朗は周囲からは気難しい人との評価を割と受けるほうであり、短期間で連絡先を交換するだけではなく、共通の友人の話題で盛り上がることなど今まで見聞きしたことがなかった。
だからその驚きに言葉をなくしてしまった慶一朗だったが、頭を一つ振った後、不思議な人だなと小さく呟き、リアムの首を傾げさせてしまう。
世界は自分たち二人とほんの少しの友人と、少しの無害な人たちとその他大勢の有象無象ばかりだと思って生きてきたが、知り合ってまだ何か月かしか経っていないのに自分達の中でお前はもう友人の中に入っているんだなと笑い、どうすればそんな風に人の中に入れるんだと、手当てを終えたばかりの手で緩く波打ちながら額にかかる前髪をかき上げた慶一朗は、そんなお前が不思議だともう一度呟いた後、自覚していない笑みを浮かべる。
その顔を見下ろしたリアムが一瞬息を飲むが、今何をするべきかを思い出してキッチンに向かい、ビールのボトルを両手に戻ってくる。
「俺もビールをもらってもいいか?」
「もちろん。好きなだけ飲んでくれていい」
いちいち断らなくていいとソファで膝を抱えて膝頭に頬を当てて笑う慶一朗にボトルを渡し、人一人分の空間を作って正対するように正面に再度胡坐をかいて座る。
「・・・やっぱり、さ」
「うん?」
手を伸ばせば届く距離で膝に顎を乗せている慶一朗の顔に浮かぶ笑顔を目の当たりにし、やはり先日抱いた好意は間違いではない、この笑顔に惹かれたんだと再認識したリアムは、ビールを飲んだ口を手の甲で拭いた後、はにかんだような笑みを浮かべて再度頬杖をついて顔を支える。
「・・・ケイには笑っていて欲しいな」
人が当然のものとして持つ感情表現の中で、嬉しかったり楽しかったりした時に自然と浮かぶ笑顔が良い、その顔なら何時間も見ていられるし、一緒にいて笑ってくれたとすれば本当に嬉しいと、少しの羞恥を目尻に浮かべただけで素直に己の気持ちを口に出したリアムは、慶一朗が心底驚いたように目を見張った後、その手の中からボトルがするりと抜け落ちたことに気づき、間一髪それを受け止めて胸を撫で下ろす。
「・・・俺にはもったいない言葉だ、リアム」
俺は、お前にそんな風にまっすぐに告白されるような立派な人間じゃないと、肩を揺らして声を暗くする慶一朗に無言で眉を寄せたリアムだったが、さっきも言ったが、俺が笑っているのは生き抜くための術だったと笑われて目を見張る。
「・・・ソウと俺が出会ったのは、十歳の夏だった」
「出会った? 双子だろう?」
しかも一見すれば見分けがつきにくい程似ている兄弟なのに出会ったというのはどういうことだとある意味当然の疑問をリアムが投げかけ、慶一朗もそれを予想していたのか、微苦笑しつつ受け止める。
「俺は総一朗に会うまで大阪の家に閉じ込められていた」
「何だって・・・?」
閉じ込められていたというのはどういうことだと、さすがに教えられた事実に驚き尻を浮かせたリアムは、今で言えば一種のネグレクトだと暗い顔で笑われて尻を床に落としてしまう。
「ネグレクト?」
「ああ。俺は、総一朗のスペアとして育てられた・・・いや、死なないように世話をされていた。自分を見ているように思ったから・・・だから今日手術をしたあの子は助けたかった」
大阪の広さだけは十分にある旧家の離れで、部屋から一歩も出ることも許されず、ただ日がな一日、与えられたドイツ語の難しい本ばかりを相手に過ごしていた幼い日々。
誰からも省みられること無く、まるで収監されている犯罪者か何かのように、時間が来れば部屋に運ばれる、味も何もない白い液体に混ぜられた食べ物らしき何か。
それを、部屋でただ一人で口から流し込み、部屋に設えられていたトイレで排泄するだけの日々。
ペットの方がまだ人に愛されていることを思えば、あの家での日々、己は時折夢に見るように、ただ生きているだけの人形のようだった。
「どういうことだ?」
その言葉にリアムが二度目の疑問の声を強く呟くと、テーブルに置かれていたボトルを慶一朗が手にし、過去を話すことへの力をビールから分け与えてもらうように飲み干して口の端から流れ落ちそうになっているビールを腕で拭った慶一朗が小さく笑う。
「総一朗は生後NICUに入らないといけないぐらい体が弱かった」
でも、同じ双子として生まれた俺は元気すぎるほど元気だったようで、まるで二人分の元気を吸い取って生まれたみたいだと言われたと笑われて唇を噛み締めたリアムは、どうしてそんな顔をすると不思議そうに問われて顔を上げ、心底不思議そうに見つめられて言葉をなくす。
「総一朗がNICUにいる間中、あの女がどうしてお前は元気なんだ、入れ替われば良いのにとずっと言っていたそうだ」
そして、生まれて間もない総一朗だけを病院に残す形で慶一朗は退院したが、入院している兄の心配だけをし続けた母と、そんな彼女の意思に逆らえなかった父は、家にいる弟を省みることがなく、それどころか、万が一手術で臓器移植などになったら双子のこの子がいる、この子の臓器を移植すれば良いと話すようになったそうだと笑われ、告げられた真実が俄かには信じられずにリアムが呆然と、色も感情も何も無い笑みを浮かべる慶一朗を見つめ、無意識にビールのボトルを握りしめる。
「幸い総一朗はすぐに退院出来たけど・・・・・・その頃にはあの女の頭の中で俺は総一朗のスペアで、何かあれば取り替えれば良いと思うようになっていたそうだ」
感情の篭らない笑顔を浮かべ、さも楽しいと言いたげに肩を揺らす慶一朗にどんな言葉をかければ良いかが分からなかったリアムだったが、それでも心の中にはそんな辛そうな顔で笑うなとの思いがあり、その思いがリアムの腕を動かし、己が手当てをした手をそっと握ると、びくりと腕全体が竦むが、先程のように離せという言葉は出てこなかった。
傷パッドで覆われている手の甲をパッドの上から撫でると不思議そうな目で見つめられるが、その視線を受けても手を撫でることを止めないでいたリアムの耳に意味が分からない吐息が一つ届けられ、総一朗は東京の家であの女とジジイ達に育てられ、俺は大阪の父の実家で死なない程度に世話をされたと教えられ、言葉よりも重ねた手から伝わる感情にリアムの胸が軋む音を立てる。
「だから俺たちは双子なのにお互いの存在を十歳の夏まで知らなかった」
それも、総一朗が夏休みを利用して大阪の父の実家に泊まりに来た時、大人たちの言いつけを破って離れに入り込まなければ、俺たちは出会うことはなかったと続けられ、色のない笑みを直視する勇気が出ずに手をただ撫で続ける。
今、己の手の中で大人しく撫でられている手は、想像を絶する過去を文字通り生き延びた果ての手なのだと気付くと、やはり役立たずなものではないとの思いが強くなり、深呼吸をした後に顔を上げたリアムは、己が想像したものとは全く違う表情を浮かべる端正な顔を発見し、無意識の行動で腕に力を込めてしまっていた。
「・・・!!」
唐突に強い力で腕を引かれてソファから滑り落ちた慶一朗は、テーブルや床に衝突する可能性にきつく目を閉じたが、無機質ではない暖かな何かにぶつかった事に気付いて目を薄く開けると、つい今まで目の前の世界の一部だったカーキ色の布地が見え、それが何であるのかを理解するのに一瞬時間を要してしまうが、リアムが着ているシャツの色だと思い出すと背中を抱きしめられている事にも気づく。
「リアム・・・?」
「・・・ケイ、上手く言えないけど、教えてくれてありがとう」
辛い過去を教えてくれてありがとうと、くぐもった声が慶一朗の耳に流れ込み、別に気にしていないし、過去は何があっても変えることができないのだから仕方のない事だと笑み交じりに呟くと、背中に回った腕に力が籠る。
さすがに体を鍛えているリアムが腕に力を籠めると息苦しくて、少し力を緩めてくれと体を捩るが、無理との言葉が湿り気を帯びたもののように感じ、どうしたと呟きつつ何とか顔を上げれば、近くにあるヘイゼルの双眸が水面に映える月明かりの様に揺らめいていて、どうしたと同じ言葉を繰り返してしまう。
「・・・どうしてお前が泣くんだ?」
「・・・お前が、泣かないからだ」
きっとお前のことだ、イチロー以外の前で泣いたこともなければその仮面のような笑顔を消したこともないのだろうと涙声で告げられて息を飲んだ慶一朗は、当たり前だろうと呟くよりも先に、自身でも理解できない、ああ、という短い嘆息をこぼしてしまう。
その短い息に込められた感情は慶一朗の持つどの言葉でも表しきれないもので、不意に胸を締め付けながらせり上がってくる何かに気付き、咄嗟に目の前にあるカーキ色のシャツを握りしめて奥歯を噛み締める。
このまま力を抜けば己はきっとリアムが今言ったように総一朗以外の前で初めて涙を見せる事になる。リアムにだけは、そんな情けない姿を見せたくはなかった。
優秀な医師と認めてくれているのなら、その顔だけを見ていてほしかった。
部屋で感情のまま暴れる姿や、過去を話すことで涙を見せる顔など見られたくなかった。
だが、それと同等の力でもって、リアムにだけは分かってほしい、そんな情けない己の姿を見ても嫌ったり呆れたりしないでほしいとの思いも芽生え、拮抗する力に慶一朗が奥歯が砕けそうなほど力を込めて噛み締める。
口を開けば、自分を受け入れてくれ、拒絶しないでくれと子供の様に泣き叫んでしまいそうで、その恐怖に拳や歯に力を込めた慶一朗は、背中をそれこそ子供の様に撫でられて自然と力が抜けていくのを感じ、分厚く鍛えられている胸板に額を押し当ててしまう。
「・・・お前が泣く必要はない、リアム」
「・・・無理だ」
好きな人が自分のせいではない理由で、本来なら誰もが持っているはずの自由や生きる権利を奪われていたと知って平然としてなんていられないと、鼻を啜る音交じりに強い口調で告げられ、思わず好きな人と返してしまう。
「・・・お前だ、ケイ。お前が好きだ」
「・・・俺を? お前が・・・?」
リアムの告白に慶一朗が心底驚いた声を上げるが、そんなことはあり得ないしあってはいけないと苦笑すれば、どうしてだと強い口調で問われながら肩を掴まれて顔を至近でのぞき込まれて息を飲んでしまう。
「・・・・・・さっきも言っただろう? 俺は、総一朗のスペアだ」
あいつにもしもの事があれば、俺のこの体はあいつに差し出さなければならない、そんないつ手足や臓器を失うかも知れない俺を好きになんてなってはいけないんだと、淡々と事実を伝える口調にリアムが唇を噛み締め、涙できらりと光る双眸に力を籠める。
「どうして?」
「・・・不幸になるのが分かっているのに、そんな相手に付き合う必要はないだろう?」
リアムの強い眼光を直視できずに目を逸らした慶一朗だったが、だから俺から人を好きになることはないしなってはならないんだと、いつか元恋人であり友人である彼に告げたのと同じ言葉を口にすると、リアムの両手がかすかに震えつつ慶一朗の両頬を包むように広げられる。
「前にもそう言っていたな? あれはお前がスペアで、いつ何があるか分からないから、か?」
「ああ・・・だから俺なんかよりお前にはもっと相応しい人がいるはずだ」
それが男女のどちらかなのかは分からないが、お前の人が好くて今時珍しい真っ直ぐさを愛してくれる人と付き合えばいいと、両頬を熱い掌で包まれる心地良さに目を細めながら自分ではない誰かを好きになれと口にすると、今まで感じたことがないような痛みが胸に芽生えて息苦しさも覚えてしまう。
突然の胸の痛みに戸惑いつつもリアムに手を離せと口にするが、離れていく熱い手を想像するだけで全身の熱が奪われるような錯覚を覚え、自然と身体を震わせてしまう。
嫌だ、離すな、離れるな。────俺以外の誰かとなんて付き合うな。
胸の痛みと息苦しさの奥から生まれたばかりの子供の様に頑是なく泣き叫ぶ声が、たった今リアムに告げた言葉を否定し、全身を震わせながら嫌だ手を離すなと悲鳴を上げる。
自覚のない子供じみた声を発するのが己だと気付いた慶一朗の目が限界まで見開かれ、それに気付いたリアムが対照的に目を細めて鼻の頭が触れ合う距離にまで顔を寄せ、そのまま触れても大丈夫な事を確信すると、次は額をコツンと重ねてくる。
それを目を見開いているためにぼやける視界と額に触れる温もりから認識した慶一朗が、それでもダメだと震える声で告げると、教えてくれとリアムが吐息交じりに囁く。
「・・・何だ・・・?」
「俺が嫌いか、ケイ?」
その言葉に潜むのは何種類かの不安で、今まで女性としか付き合ったことがなく恋愛の対象も女性ばかりだったリアムが生まれて初めて男に告白をしているのだと気付いた慶一朗は、問われた言葉に一度きつく目を閉じた後、リアムの肩に手をついて距離を取り、声が表している不安を顔中に広げた愛嬌のある顔に泣いているような顔で笑いかける。
「嫌いじゃない。────はっきり言えないけど・・・お前のことは、好きだと思う」
でも、だからこそ、さっきも言ったが、お前には俺よりももっと相応しい人がいる、その人と付き合った方が良いと、こんな、大人ならば出来て当たり前のことも出来ない、感情的になれば周囲のものを壊してしまうような情緒不安定な情けない男と付き合う必要はないと目を閉じると、閉ざした瞼に濡れた感触が二度生まれ、恐る恐る目を開ければ、さっきの不安を一掃した、慶一朗も密かに惹かれた笑みを浮かべる顔があり、先程のように奥歯を噛み締める。
「そうか────俺を嫌いじゃないんだな」
「あ、ああ、嫌いじゃない」
はにかんだような笑顔で頷かれて目を丸くした慶一朗は、再度頬を両手で挟まれて瞬きをすると、互いの目に互いの顔が映り込む距離に顔を寄せてきた愛嬌のある顔が惚れ惚れするような笑みを浮かべた事に息を飲む。
「ああ、良かった。嫌われていたらどうしようかと思っていた」
「そ、んなこと・・・」
ある筈がないと途切れ途切れの言葉で思いを伝えた慶一朗にリアムが笑みを深め、もう一度好きかと問いかけると、慶一朗の色素の薄い双眸が左右に泳いだ後、嫌いじゃないという精一杯の言葉が流れ出す。
「・・・ケイ?」
好きと言って欲しいと思いつつ覗き込んだ慶一朗の目の縁が真っ赤になり、頬を包んでいる掌にも熱が伝わってきて、かなりの羞恥を感じていることに気付いたリアムがこれ以上は言葉で思いを伝えても無理だと悟り、嫌いじゃないとの言葉を金科玉条に据えて顔を寄せると、何かを察した慶一朗の目が閉ざされる。
言葉と顔を寄せると閉ざされる瞼から、もしかすると己の思いを素直に口に出来ないだけではないかとも気付いたリアムがさらに顔を寄せ、薄く開く唇に先日よりは明確な意思を持って口付ける。
「────ん」
微かに抜けるような息に誘われて角度を少し変えると、慶一朗がリアムのシャツの胸元を軽く握って身を寄せてきた為、薄く目を開ければ、間近に仄かに赤く染まる顔が見え、何かが吹き飛んでしまうような錯覚に襲われる。
今まで付き合ってきた彼女達とは当然ながら何度もキスをするだけではなくその先の関係にもなっていたが、今己が瞬間的に覚えた感情はその時々の彼女達に感じていたものとは比べられないほどだった。
このままではマズイと思いつつも、やはり先日にも感じたように離れ難い思いが芽生え、どうしようかと脳味噌の中で言葉をぐるぐると回転させてしまったリアムだったが、不意に胸に寄り掛かる重さが増えたことに気付き、理由を探るために慶一朗から離れると、耳まで赤く染まった顔が己の胸に寄り掛かるように寄せられ、全身からも力が抜けているようだった。
「ケイ!?」
大丈夫かと両肩を掴んで揺さぶろうとしたリアムの耳に微かな寝息が流れ込み、まさかと顔を覗き込むと、己の唾液に濡れた唇が薄く開いていて、その間から寝息が規則正しく流れ出してくる。
「・・・・・・」
まさかキスの最中に眠ってしまうとは思わず、どうするべきかと天井を仰いだリアムは、寄り掛かる身体から完全に力が抜けていることに気付き、キスをしている羞恥から寝たフリをしているわけではない事に気付くと、次第に笑いがこみ上げてくる。
己の非力さに感情を爆発させて自傷し、まだ互いのことをほとんど知らない浅い関係の己に辛い過去を話してくれたことや、今こうして無防備な姿を見せているのも、実は無意識に心を許してくれているからではないかと思い至れば、好きと言えないのも慶一朗の特性だと理解できてしまう。
寝入ってしまった慶一朗を支えながら一頻り笑って本当に仕方がないと緩く波打つ前髪の合間に見える額にキスをし、流石に寝入ってしまった成人男性は重いと苦笑しつつそれでも慶一朗を難なく抱き上げると、自宅ではトレーニングルームになっているリビングの隣にあるベッドルームに運び、クイーンサイズのベッドにそっと下ろして掛布団を引っ張り上げてやる。
目を覚ますことなく眠り続ける慶一朗を暫く無言で見下ろしていたリアムだったが、帰宅直後に感情を爆発させて大暴れした疲労がこの眠りによって解消されればいいのにと願いながらベッドルームを出ると、慶一朗が大暴れをした結果の惨状が広がっている部屋の戸締りをし、静かに階段を降りてくる。
遮光カーテンと窓の外を伝い落ちている雨のせいで暗い室内に顔だけを突っ込み、穏やかな寝息を立てて慶一朗が眠っていることを確認したリアムは、スマホを取り出して鍵を借りた、朝一番に返すとメッセージを送り、メッセージ通りに慶一朗の鍵で玄関を閉めると、ジーンズの尻ポケットに突っ込んであった鍵を使って自宅に入る。
その途端、実は覚えていた緊張がリアムの身体を震わせ、帰宅してから今までの出来事を瞬間的に思い出すと同時に幸福と不安と得体の知れない何かが入り混じった複雑な感情が全身を巡り、落ち着こうとキッチンに駆け込んで冷蔵庫を開けて水のボトルに直接口を付けるとその場に座り込んでしまう。
今日は一日が随分と長く密度の濃い日だったと冷蔵庫に背中を預けながら苦笑すると、このままここで座り込んでいても仕方がない事を思い出し、震える膝に手をついて立ち上がる。
空腹を覚えていてもさすがに料理をする気持ちになれず、水のボトルを片手にベッドルームへと階段を登っていったリアムは、ベランダに出る窓が開けっ放しであることに気づいて窓を閉め、そのままベッドに倒れこむと、慶一朗と大差のない顔ですぐさま眠りに落ちてしまうのだった。
こうして壁を隔てた隣同士でお互いへの好意を自覚しあった二人がほぼ同じように眠りに落ち、夢も見ない眠りから覚めた時には、前夜の出来事を思い出して同じような顔で頭を抱え込み、どんな顔をして互いに顔を合わせればいいのか朝一番から頭を悩ませてしまうのだった。