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凪は迎えにきていた将臣の馬車に乗り込んだ。
並んで座る二人の間には、一人分の空間がある。
将臣は腕組みを崩さず、背を正したまま窓の外を眺めていた。馬の蹄と車輪が砂を轢く音だけが、空間を埋めていた。
凪の視線だけは落ち着かず動くが、薬研を抱えたまま微動だにできない。
「腕にあるものはなんだ」
唐突に、将臣が凪を見ずに尋ねた。
凪は思わず背を伸ばす。
「こ、これは薬研です。薬草をすりつぶす器具です」
思わず唾を飲む。
将臣は目を閉じたまま答えた。
「……なるほど。どおりで薬草の匂いがする」
「はい。持参してきました」
目を開けた彼は再び窓の外を見ている。
「嫁入り道具が薬研とは、珍しいな」
そして続ける。
「さすが、桐谷の妹君だな」
(兄様を……ご存じなのね……)
張り詰めていた息が少しだけほどけた。
それでも、この人がどんな人なのかは、まだ分からない。
凪も窓の外の流れる景色に目をやった。
麒麟堂は東京・花霞町の商店街の坂下にある。
安藤家は馬車で十分ほど離れた小高い桔梗町にあり、近くには陸軍施設や武家屋敷が多く立ち並んでいた。
磨き上げられた馬車の真鍮の金具が、陽を受けて静かに光った。飾り立てることはなく隅々まで手入れが行き届き、将臣の几帳面な性格が伝わってくるようだった。
凪は薬研を胸に引き寄せる。
(……兄様、どうか見守っていてください)
心の中でそう呟き、かすかに震える指先に力を込めた。
馬車がゆっくりと速度を落とした。やがて高い塀に囲まれた屋敷の前で止まる。
重厚な黒塗りの門。門柱には『安藤』の表札が掲げられていた。
門の向こうには、よく手入れされた松が見え隠れし、その奥には大きな母屋の屋根が覗いている。
(ここが……安藤家)
凪は薬研を抱く腕に力を込めた。
御者である下男が扉を開くと、先に将臣が降りる。続いて凪が薬研を抱えながら降りようとした時、すっと将臣の手が差し出された。
「ゆっくりでいい」
だが、将臣は表情を変えない。
怜悧な瞳で見つめられると、凪は、頬の傷に恐怖を感じてしまう。
「……あ、ありがとうございます」
凪が馬車を降りた時だった。
「先生っ! お願いします、診てください!」
二歳くらいの男の子を抱いた母親が駆け寄ってきたのだ。
将臣はすぐに身体を向けた。
「どうなさいました?」
「昼頃から急にぐったりして……熱まで出てきてしまって」
腕に抱かれている男の子は目がトロンとしており、だるそうに眉を寄せている。
将臣は男の子の額に手を当て、首筋へ指を滑らせる。そっと口を開けさせ、中を確かめた。そして、服から出ている皮膚の状態を観察していた。
「朝の様子は?」
「元気でした。外で近所の子と遊んでいてっ!」
「最後に水を飲んだのは?」
「……朝です」
「お小水は?」
「そういえば……さっき、色の濃いのが少し出てました」
将臣は小さく頷いた。
「脱水ですね。今日は暑いですから、水を飲まずに遊び回ったせいでしょう」
母親は目を瞬かせる。
「病気、じゃないんですか?」
将臣は母親に笑みを見せる。
「しっかり水を飲ませてください。そうすれば、明日には熱は下がります」
その口調は、驚くほど穏やかだった。
母親が唇を震わせ、泣き始める。
「てっきり流行り病かとっ……!」
「大丈夫です」
将臣は穏やかに頷いた。
すると、母親の強張っていた肩がすっと下りた。
凪は、それを将臣のすぐ後ろの距離から見ていた。
(この方、噂とは……違う)
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