テラーノベル
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次の日。大事をとって仕事を休んだ未央を、玲奈が見舞いにやってきた。
「ほんとに、無事でよかったよ。調子はどう?」
お茶を出そうと思ったが、動かなくていいと言われたのでベットから体だけ起こした。
体はやはり疲れていて、できれば動きたくないというのが本音だ。
「ごめんね、心配かけちゃって。もうどこも悪くないし元気だよ。なんで倒れたかわかんないんだけど、前の晩に無理して寝不足だったのがいけなかったと思う」
「体調悪いときは無理せず休みなよ。レッスンに穴開けたくないのもわかるけどさ」
それは無理。と玲奈に言うとくすくすと笑われた。
「昨日は誰が変わってくれたの?」
「新田先生。たまたま早く出勤してたから、チーフが頼んでたよ」
「明日はお礼言わなくちゃ」
お互いさまでしょと、玲奈は言うが責任感の強い未央は、罪悪感でいっぱいになりだまりこんだ。
「それより、ここ。相変わらず古いね」
玲奈はぐるりと部屋を見回した。年季の入った砂壁、縁側、畳の部屋。昔の古い家という雰囲気。掃除だけはこまめにしてこぎれいにはしてある。
「せめてレトロと言ってよ。まあでも築60年だもん。実家みたいで安心するんだ。」
「そうね。庭付き、平家、1DK、ペット可な物件なんてそうないもんね。家賃もお手頃って言ってなかった?」
「そう、周りの1DKと同じくらいなんだよ。ずっとここにいたい」
「そっか。おばあさんが亡くなって、ネコが飼えるここへ引っ越して……。それからもう1年くらい経つ? いろいろ大変だったよね」
玲奈はそう言うと、部屋の片隅に小さく作られた仏壇に目をやる。
縁側で伸びているサクラがゴロゴロと寝返りをした。
「1人になっちゃったけど、サクラもいるし、仕事もあるし、毎日楽しい。だからいいんだ」
幼い頃に両親は他界し、祖母に育てられた。その祖母も1年前に他界。
肉親と呼べる人は誰もいなくなり、忘れ形見のネコのサクラを引き取ってここに引っ越した。
「だれか、パートナーでも見つかるといいわね。家族がいるって大変だけど、楽しいわよ」
コクンと小さく頷く。それが精一杯だった。
「32は、まだまだ若いよ!」
そういう玲奈の明るい慰めが、悲しく聞こえる。
家族の幸せ……。
父や母と過ごした記憶はほとんどない。その幸せをつかみたいのか、つかみたくないのか。未央はまだわからなかった。
「元気そうで安心したわ。じゃあ、またあした」
玲奈は見舞いのドーナツを置いて帰っていった。
ベットから出て、ちゃぶ台に置かれたドーナツの袋をガサガサと開ける。
ドーナツを口いっぱいほおばりながら、縁側で寝ているサクラのとなりに腰を下ろした。
のどをなでると、ゴロゴロと鳴らしながら、気持ちよさそうにしている。
セミの声が崖下の雑木林から聞こえてくる。
未央はきのう亮介にキスされた手の甲をじっと見た。あれは夢だったのか? はぁ……とため息をつく。
ピンポーン──
突然、玄関のベルが鳴った。慌てて玄関へ向かう途中、ちゃぶ台に足の小指を思いっきりぶつけた。
あまりの痛みにゴロゴロ転がって悶絶しているうちに、カタッとポストに何かが入れられた音がして、玄関の前が静かになる。
痛みが落ち着いて、ドアを開けた時にはもう誰もいなかった。ポストをみるとメモ書きが一枚入っていた。
『となりに引っ越してきました。よろしくお願いします』
ささっと書いたであろうその字は、とても美しかった。どんなきれいな女性が引っ越して来たんだろう。
勝手に女性だと決めつけるくらい、綺麗な字だった。
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