白川が逃げ去ったあと、沙良は僕にすがりついたまま、ずっと肩を震わせていた。
「……ひとりに、しない、で……? お願い、……朔夜くん……」
その声は力なく掠れているうえ瞳は涙に濡れていて……ギュッと震える手で懸命に僕にしがみつくさまはたまらなく可愛い。そんな沙良が僕を頼って、震える声でひたむきに僕の名前を呼んでくれた。
いつもは〝八神くん〟とすらなかなか呼んでくれない沙良が、そこをすっ飛ばして〝朔夜くん〟と口にした瞬間、僕の中の何かがカチリと音を立てて噛み合った。
(これで、もう沙良は僕を拒めない)
そう確信した。
「……大丈夫だよ、沙良。もう、怖くない」
僕はそう言って、そっと彼女の頭を撫でた。彼女の髪は川風の影響か、少し湿っていて……そしてとても冷たかった。
それを実感した途端、僕の中に彼女を手放せない、という気持ちが強く渦巻いた。
こんなに弱々しくて小さい生き物を、一人にしておいていいはずがない。僕がそばにいて、守ってあげなくちゃ。
「沙良。今日はもう、ひとりでいるの、嫌だよね? ほら、あいつは捕まえられていないし、またどこからキミをつけ狙ってくるか分からない。危険でしょう? ――ね、沙良、落ち着かないかも知れないけど……今日は僕と一緒にいない?」
「でも……」
沙良は小さく首を振ったけれど、拒絶の色は薄い。ただ、怯えた動物が本能的に慎重になっているだけ。僕は焦らずに、微笑んで見せた。
「ご両親に頼れるのが一番だけど……多分沙良の実家はここから遠いよね?」
「え?」
僕の言葉に(何故そんなことを知っているの?)という警戒がちらりと垣間見える。
だけどそんなのは想定の範囲内。
「ほら、沙良、前に話してくれたじゃない。さっきの男――白川だっけ? あの塾講師から逃れるためにわざわざ明都大に来たって。それって……実家とココが離れてるって意味だと理解してたんだけど……違った?」
実際沙良の生家とここは新幹線で三時間はかかる。そんなのはとっくの昔に彼女のことを調べた時に織り込み済みだ。
だけどそれを悟らせるわけにはいかない。
さも沙良の言葉から推察したみたいにそう言えば、沙良が僕の顔を見て小さく息を呑んだ。
「朔夜さんの……おっしゃる通りです」
「だったら」
――僕を頼るしかないよね?
そう言外に含ませて沙良をじっと見つめるけれど、沙良はやっぱり用心深い。
僕を見つめる目にまだ迷いがあった。
こういう時は推してばかりじゃダメだ。
「もちろん無理にとは言わない」
僕は一旦引く素振りを見せておいて、再度沙良の不安をあおる作戦に出る。
「でも、万が一またアイツが戻ってきたら? あの男、沙良を狙ってたの、あれが初めてじゃないみたいだよ?」
そこまで言って『しまった』と口を滑らせたふりをした僕を、沙良が不安そうに見つめてくる。
僕は小さく吐息を落とすと、さも意を決したみたいに付け加えるんだ。
「ごめん。言ったら怖がらせちゃうかも知れないから言うつもりなかったんだけど……ここで言わなかったら後悔しちゃう気がするから言うね? ……実は僕、今までにも学校付近であの男を何度か見かけたことがあるんだ」
僕の言葉に、沙良の身体が明らかに強張ったのが分かる。
効果は抜群。もう一押しだ。
僕は少しの間を置いてから、声のトーンを少し柔らかくして、優しい声で畳み掛ける。
「だから、ね? 今日は僕の家で過ごそう? 僕もこんな状況で沙良のことを一人にしちゃったら、気になってきっと眠れない。沙良、僕はキミを裏切らないって……信じてくれるよね?」
沙良は僕の顔をじっと見つめた。潤んだ瞳に、迷いと不安と、ほんの少しの救いを求める色が混ざっていた。
ややして、沙良は小さくコクンと頷いた。
「……今日だけ……」
その言葉に、僕は心の奥でひそやかに笑った。
そう、これでいいんだ。まずは「今日だけ」。
それが、「ずっと」に変わり、やがて「僕の傍でしか生きられない」に変わっていけばいい。
「ありがとう。沙良が一緒にいてくれたら、僕も安心できるし……嬉しいよ」
「嬉しい?」
「あれ? 言ってなかったかな? 僕は……キミが好きなんだ」
「えっ?」
瞳を見開いて驚く沙良に、僕は手を差し出して、彼女の手をそっと包み込むように握った。
「でなきゃ、いくらこんなことがあったからって家に誘ったりしないよ?」
「……」
沙良の目が、僕をじっと見つめている。
僕は沙良を見つめ返しながら、ほんの少し眉根を寄せてみせる
コメント
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ああ、罠にかかってしまったΣ( ̄ロ ̄lll)