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夕陽がゆっくりと傾き、研究室の壁を橙に染めていた。
昼間の喧騒が遠ざかり、窓の外では木々が静かに風に揺れている。
柔らかな光が机の上の器具を照らし、影がゆっくりと伸びていた。
くられは実験ノートを閉じ、軽く肩を回した。
ペンを置く音が小さく響く。
その瞬間、ようやく昼から続いていた時間が一区切りついたように思えた。
「先生、もう夕方っすよ」
声の方を向くと、ツナっちがドアのそばに立っていた。
「……もうそんな時間か。時計を見るの、忘れてたよ」
「またデータとにらめっこしてたんですね」
「うん。でも、あと少しでまとまりそうなんだ」
「“あと少し”が長いの、先生の悪いクセっす」
くられは苦笑しながら、机に肘をついた。
「図星だね」
「でしょう?」
ツナっちは笑いながら近づき、机の上にマグカップを置いた。
それからは、ほんのりと湯気が立っている。
「コーヒー、淹れ直しました。今度はあったかいですよ」
「ありがとう。気が利くね」
「先生、昼の冷めたやつまだ残ってたんで、捨てときました」
「はは、報告まで丁寧だ」
「心配性なんで」
くられはマグカップを受け取り、湯気の向こうで微笑んだ。
その表情が光に透けて、ほんの一瞬、ツナっちは目を逸らした。
「外、すごく綺麗ですよ。もうすぐ陽が沈みます」
ツナっちが窓辺に立ち、指先でガラスを軽く叩いた。
くられも立ち上がり、肩越しに外を見る。
街の遠くにビルの影が伸び、空は淡い茜に染まっている。
その光景に、くられは小さく息をついた。
「……いい時間だね。昼と夜の境目は、どうしてこんなに落ち着くんだろうね」
「確かに。なんか、研究室の音も静かに聞こえますね」
「機械たちも、休憩中なのかも…なんて」
「先生、機械にまで優しいのはやめてください」
ツナっちは笑いながらそう言ったが、その穏やかな声音の裏には、どこか安心したような響きがあった。
ふたりはしばらく並んで夕陽を眺めた。
ガラス越しの光が白衣の裾を金色に染め、影が重なる。
「ツナっち」
「はい?」
「昼に言ってくれたこと、ちょっと効いたみたいだ」
「え、どの話っすか?」
「“無理してるように見える”ってやつ」
「……あぁ。ようやく自覚しました?」
「少しだけね。でも君のおかげで、ちゃんと息ができてる気がするよ」
ツナっちは視線を伏せて、頬をかいた。
「……そっすか。なら、まぁ、よかったです」
くられは笑いを含んだ声で続けた。
「心配性なのも悪くないね」
「先生、それ絶対わざと言いましたよね」
「さぁ、どうかなぁ…」
軽い言葉の応酬に、空気がふっと和らぐ。
窓から差し込む光がゆらぎ、ツナっちの笑顔を照らした。
「先生」
「うん?」
「たまには、こうしてのんびりするのもいいっすね」
「そうだね。静かな時間って、案外いちばん贅沢なのかもしれない」
しばしの沈黙。
風がカーテンを揺らし、遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
時計の針がゆっくりと進む音が、やけに優しく響いていた。
ツナっちは鞄を持ち、ドアの方へ向かう。
「俺、先に戻ります。先生はどうします?」
「もう少しだけ、データを整理してから帰るよ」
「“少しだけ”って言葉、ほんと信用できないっすね」
「信じてもらえるよう努力するよ」
「……じゃあ、明日確認します」
「怖い監査官みたいだ」
「監視です。ちゃんと帰って寝たか、報告義務ありますから」
「はは、わかったよ」
ツナっちは笑いながらドアノブに手をかけた。
夕陽の光がその頬を照らし、橙色に染めている。
「……先生」
「ん?」
「また明日も、ちゃんと顔見せてくださいね」
「約束するよ」
ツナっちは微笑み、静かに扉を閉めた。
研究室に再び静寂が訪れる。
くられはコーヒーを口に運び、残りわずかな温もりを感じながら、
窓の外に沈む光を見つめた。
光はもう、ほとんど夜に溶けかけている。
けれど、その境界に漂う時間が、彼には心地よかった。
「……ほんと、早いな。今日も」
小さくつぶやき、空になったマグカップを机に戻す。
わずかに指先に残る温かさが、どこかツナっちの声のように感じられた。
夕暮れの風がそっとカーテンを揺らす。
光も音も柔らかく混ざり合い、研究室は穏やかな余韻に包まれていた。