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ツナっちが帰ってから、どれくらい経っただろう。
研究室には、機器の駆動音だけが残っている。
昼間のざわめきも、笑い声も、すっかり夜の闇に溶けていた。
くられは画面を見つめながら、データを整理していた。
マウスのクリック音が、やけに遠く響く。
静けさの中で、呼吸の音さえ自分のものじゃないように感じる。
ふと、視線の先にマグカップが目に入った。
ツナっちが使っていたものだ。
飲み残したコーヒーが底に少しだけ揺れて、
その黒い水面に、天井の灯りが淡く映り込んでいた。
「……忘れていったな」
ぽつりと漏らした声は、想像していたよりも小さかった。
笑うつもりで言ったのに、唇の端は少しも上がらない。
――「データより自分のメンテも大事ですよ」
昼に聞いたツナっちの言葉が、不意に胸の奥で反響した。
「……言ってたな、そんなこと」
誰に向かうでもなく、独り言のように呟く。
その声はすぐに空気に溶け、静寂に吸い込まれていった。
夜は深い。
窓の外では風が木々を揺らし、葉の擦れる音が小さく響く。
空には月がなく、星だけが淡く瞬いている。
まるで、誰かの代わりに見守っているかのように。
くられは窓辺に立ち、首を少し傾げた。
胸の中に浮かぶ感情に、名前をつけようとして――やめた。
言葉にしてしまえば、たぶん何かが壊れてしまう気がした。
「……理屈じゃない、か」
その一言が、夜の空気をわずかに震わせた。
研究室に戻り、机に置かれたノートを開く。
端に走り書きのメモ――ツナっちの字だ。
少し歪んだ線に、思わず指先が触れる。
かすかに冷たい。
けれど、不思議と温かかった。
時計の針が静かに時を刻む。
機器のライトが小さく点滅する。
くられは息を整え、再び画面に視線を戻した。
何も考えないように、けれど何かを思い出しながら。
外では風が吹き抜け、星々が瞬いている。
夜はまだ長い。