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健ちゃんは唇を噛み、俯いたまま動かない。その背中には、悔しさと惨めさが滲んでいた。
(ここで……俺はどうすればいいんだろう?)
胸が強く脈を打つ。数日前の俺ならきっと、卑怯なことをした健ちゃんを責め立てただろう。けれど今は違う。氷室の隣に立つ覚悟を決めた。だからこそ、ただ相手を切り捨てるために言葉を使うつもりはない。
俺は一歩、健ちゃんを見ながら近づいた。すると俺と顔を合わせないようにするためか、健ちゃんは首を垂れてさらに俯く。
「健ちゃん。君がどうして加藤くんの言いなりになったのか、今わかったよ。だけどそれで蓮を傷つけようとしたことは、やっぱり間違いだよね」
健ちゃんの肩がびくりと揺れる。俺はさらに言葉を重ねた。
「健ちゃんも知ってのとおり、俺は昔から臆病者だった。でも臆病だからこそ、誰かを頼ったり縋りたくなる気持ちもわかる。だから……俺は君を責める気はない。もうやめようよ、こんなこと」
健ちゃんが少しだけ顔を上げる。その瞳には驚きと揺らぎが混じっていた。彼の隣で、加藤くんが鼻で笑う。
「なにそれ? 甘すぎでしょ、奏先輩。大好きな氷室先輩をキズつけた相手を庇うなんて、マジでバカらしいんですけど!」
煽るようなセリフを大声で告げる加藤くんを、目力を込めてまっすぐ見据えた。
「そうだね。傍から見たら、実際バカなのかもしれない。だけど俺は幼なじみの健ちゃんが、このまま間違った道に進むのがイヤなんだ。健ちゃんが未だに俺を見下していたとしても、俺は彼を止めたい。健ちゃんを見捨てないのも、俺が決めた答えなんだよ」
その言葉が夜に響いた瞬間、加藤くんの笑みが引きつり、目が左右に泳ぐ。彼の手のひらから、計画という名の盤面がすり抜けていくのがわかった。
しっかり前を見つめる俺の隣で、氷室が静かに頷く。
「奏……」
その声には、誇らしさが混じっているように聞こえた。健ちゃんは唇を震わせ、拳を握りしめたまま立ち尽くす。
「俺なんかを庇っても、意味なんて全然ないのに……」
「大丈夫。そこに意味はあるよ」
胸の奥から自然に溢れ出た声は、まったく震えていなかった。むしろ、穏やかで優しいものになっている。
「だって、誰かを利用して追い詰める加藤くんより、仲間と立ち直ろうとするほうがずっと強いって、俺は信じてる」
その瞬間、健ちゃんの瞳に一筋の光が差した気がした。加藤くんの笑みが、初めて僅かに揺らぐ。
「……へえ、おもしろいじゃん。奏先輩、随分と生意気になったね」
相手を見下すセリフなのに、さっきまでの余裕が感じられなかった。
ここにきて加藤くんの笑みが揺らいだ瞬間、空気の支配は完全に逆転した。もう俺は、彼の言葉に怯える存在じゃない。
氷室が静かに俺の隣に並ぶ。その背筋はまっすぐで、夜の闇を切り裂くように凛としていた。俺が大好きな氷室蓮がそこにいる。
「加藤。君の狙いはもう終わりだ。奏も神崎も……もう操られない」
氷室の冷ややかな言葉が突き刺さった瞬間――。
「……は、ははっ……負け?」
加藤くんの笑みが引きつり、次の瞬間、爆発するように怒声をあげた。
「ふざけんなああああっ! この俺が負けるわけねえだろ! 俺が! おまえらみたいな臆病者や偽善者にっ!」
顔を紅潮させ、髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。手にしていたスマホを地面に叩きつけ、画面が砕け散った。
「俺が全部操ってやったんだ! 工藤も、神崎先輩も、みんな俺の言うことを聞いてたんだ! それなのに……それなのにぃっ!」
喉が張り裂けそうな叫び声。もはや黒幕の余裕はどこにもなく、狂気と怨念だけがむき出しになる。
「なんで奏先輩なんかがぁぁっ……! 臆病で弱くて……俺が欲しかったのは……おまえだったのに……!」
絶叫は悲鳴のように掻き消えた。力が抜けたように膝から崩れ落ち、荒い呼吸の合間に嗤う。
「はは……バカみてえ……全部……無駄だった……」
加藤くんは震える肩を抱え、やがて立ち上がると、ふらつく足取りで背を向ける。その姿はもはや黒幕ではなく、敗北に押し潰されたただの少年だった。
「……消えろ。もう二度と俺たちの前に現れるな」
氷室の声が夜を貫く。加藤くんは振り返らない。街灯の影に溶けていく背中が見えなくなった瞬間、張り詰めていた空気がようやく解けた。あとを追うように歩き出した健ちゃんが、不意に立ち止まる。
体を震わせながら、恐るおそる振り返る。
「……奏」
月明かりに照らされた顔は、悔しさと後悔でくしゃくしゃだった。
「ごめん……俺、ずっとおまえを見下して……それで加藤に利用されて……最低だった」
握りしめた拳が小刻みに震える。俯きながらも、声を絞り出すように続けた。
「加藤に脅されてたのは事実だし、従ったのは俺の弱さだ。氷室を傷つけようとしたのも……俺自身の意思だった」
俺は黙って彼を見つめる。健ちゃんはひとつ深呼吸をし、涙を拭いながら小さく笑った。
「だから逃げない。明日、俺は自分から先生と生徒会に全部話す。氷室の靴に細工しようとしたことも、加藤に従ったことも。処分がどうなろうと俺は受ける」
氷室が小さく目を見開く。けれど健ちゃんは、もう一度強く頷いた。
「これはおまえたちのためじゃなく……俺自身のためにやるんだ。二度と人のせいにして逃げないって、ここで決めたから」
そして深々と頭を下げる。
「奏……さっきおまえに守られて、逆に突きつけられたよ。こんな俺でも……まだやり直せるって。ありがとう」
震える声を残し、夜の闇に消えていった。その背中からはもう、加藤の影も縛りも感じられなかった。