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客の入りが悪かったために午前の興行を早々に終え、コドーズに理不尽な苛立ちをぶつけられた後、レモニカは舞台裏、奇妙な生き物たちが鞭を恐れて息を潜める控えの天幕へと戻る。そこにはコドーズ団長の商売道具である沢山の生き物が居るが、戻ってきたレモニカを迎える者はいない。
獅子の姿でいることに嫌気がさして、レモニカは天幕の端へと近寄る。すると呪われたレモニカの姿は次々と世の嫌われ者に変化する。蛙、蛇、巨大な犬、空想上の怪物、太った警吏、やくざ者。天幕の外を歩く通行人たちがこの世で最も嫌う姿へと変化しているのだった。一見嫌われそうにない立派な身なりの青年や美しい少女の姿になることもあったが、その理由を考えると気が滅入るばかりだ。
しかし、しばらくしてなぜか姿が固定される。それはあの黒衣の女の姿だった。いわゆる救済機構の焚書官の僧衣だ。きちんと鉄仮面もつけている。
天幕の外で、あのエイカという名の少女がじっと立っているらしい。レモニカは思わず、耳を天幕に近づける。するとあの溌剌とした声が聞こえてくる。エイカと赤髪の少女の声だ。
「ユカリが焚書官をそこまで嫌ってたとは思わなかったよ」と言ったのは赤髪の少女の方だ。
名の違いにレモニカは少し困惑するがただただ耳を澄ます。
「私もだよ。お化けか人攫いか蜘蛛だと思ってたんだけど」とエイカだかユカリだかは不思議そうに呟く。
「どれもユカリから聞いたことないよね。お化けってどんなお化け?」
「私が村を出ようとしたら私を連れ去るお化け」と言ってユカリというらしい少女はくすっと笑う。
「何それ」
「そうやって親に脅されてたんだよ。私が勝手に村の外へ出て行かないように」
「つまり教育だったんだね」
「そう。だからお化けを退治することが幼い頃の私の悲願だったんだ!」
「つまり逆効果だったんだね。そもそもユカリの中で恐ろしいと嫌いが等しくないじゃない」赤い髪の少女は呆れた風にため息をつく。「でもじゃあお化けや人攫いより焚書官が嫌いなんだ?」
ユカリは頭の中を整理するために小さく唸る。
「たぶん、焚書官が嫌いというよりは、あれは私の想像上の産みの母だと思う」ユカリは何でもなさそうに質問に答える。「私、産みの母の姿を見たことがないから。生きてはいるらしいんだけど。救済機構の僧侶だってことしか知らないし。だから本当のところは焚書官とも限らない。そもそも今も尼僧をやってるのかも分からない。たぶん私が最初に思い浮かべる救済機構の僧侶というと焚書官だから、ああいう姿になったのかな」
「ああ、エイカだよね。母親の名前。嫌いだったなんて驚き」
再びエイカの名が出てきたが、レモニカは困惑しても仕方ないので聞き流す。
「正直に言って私も驚いたよ。でも、確かに好きになる理由は特にないね。ほとんど何の接点もないから。理由はどうあれ、子供を捨ててどこかへ行ってしまったわけだし。でも自分が実母のことをこの世で最も嫌いな生き物だと思ってたなんて。少し罪悪感を感じる」
「まあ、ワタシもひとのことは言えないけど」赤髪の少女は苦笑する。そしてからかい半分で刺々しく言う。「それはそうと。なんであんな言い方するかな。見世物小屋の団長、苛立たせてどうすんの? ここなら鎖があるかも、頼んでみようって言いだしたのは誰だっけ?」
「そんなに酷いこと言った? 刺々しかったとか? それならごめんなさい。悪気はなかったんだけど、何だか全体的に乱暴な見世物だったから私も苛立って口が滑ったのかもしれない。でもあの変身する怪物が鎖を持ってたよね。借りれないかな」
「ワタシなら貸さないね。交渉の席にすら立たない。見世物を台無しにするユカリみたいなお客さんには帰ってもらうよ」
「わあ、ありがとう! お願いね。ベル大好き!」
「ワタシが交渉するって意味じゃない!」
レモニカは咥えた鎖の隙間から嗚咽を漏らし、仮面の隙間から涙を流した。二人の会話を聞いて、メールマを思い出したからだ。しかしメールマのことを思い出す時、思い浮かぶのは沢山の楽しい思い出ではなく、たった一度だけ聞いた叫び、悲鳴、命乞いだった。
そこから逃げ出して、さまよって、捕まって、売り飛ばされて、行き着いた先には何もなかった。ただ、いくら後悔しても変えることのできない過去だけが、ずっとそばでレモニカに呪いの言葉を囁いている。大人しくしていれば、誰を傷つけることもなかった、と部屋の隅から、夜の星から、臓腑の奥から囁きかけてくる。
「ねえ、ベル。誰かが泣いてる。天幕の向こう。ここから入れそうだね」
「入れるからって入って良いってことにはならないんだよ、ユカリ」
「でも、鎖なんて簡単には調達できないでしょ?」
「それは、そうだけど。まだ交渉すらしてないのに。泥棒はしないんじゃなかったの?」
「極力ね」
ユカリが天幕をくぐって入って来る姿を、レモニカは呆然と見つめる。そこをくぐることは何度か想像してきたが、そんなにも簡単にできてしまうことに頭が追い付かなかった。
「あっと、焚書官、じゃないよね。ケブ……なんだっけ。ベル。ここにケブ……」ユカリは天幕をくぐってしまう。そしてレモニカの顔を見て息を呑む。「あれ? どうしたの? どうして泣いているの?」
ユカリを真正面に見据えて、レモニカは何も言えず、言葉にできず、飛び退く。そうしてただかぶりを振るしか出来なかった。恥ずかしくなって涙を拭おうとするが、変身した姿はレモニカ自身にも変化させられない。仮面を外すことはできず、涙は止まらなかった。
「ケブシュテラだよ。あ、見て。ユカリ。ちょうどいい」ベルと呼ばれた少女は不躾に鎖をつかんで、そこに刻まれた呪文をユカリに見せる。「【呪縛】も使われてる。この怪物、ケブシュテラを戒めるための魔法の道具だね。ユカリ、【呪縛】の他は?」
ユカリは不機嫌そうに鼻にしわを寄せながらも素直に答える。「えーっと、呪い、怪物、戒められた竜、罪、深い牢獄、鎖、禁断、慈悲深き懲罰。それと……」
「火と不滅」とベルは助け船を出す。「森盗人不埒な手を地の底に封じたという魔術師明けの微笑みの封印魔術にも使われたとされる由緒正しき文字だよ」
「そういうのだよ! そういうの!」とユカリは驚いた様子でベルに丸い瞳を向けて言う。「そういうのを教えてくれれば私もお勉強のやる気が出るんだけど?」
「こういうの?」と言いつつベルは何を指すのか分からない様子で首をひねる。
ユカリは興奮した様子で何度も頷く。「そういうの。そういう物語を聞けば覚えやすいはず」
「そういうものかな」ベルは納得いかないのか首をひねる。「まあ、いいや。それにしてもこの鎖は強力な代物だね。鎖を与えられたものが決して離すことのない呪いだよ」
ユカリの両手が鎖から身を守るように跳ねる。
「触って大丈夫なの?」
「この怪物のためだけの特注品みたいだからね。まあ、ワタシの敵ではないんだけど」
レモニカも知らなかったことをこの赤髪の少女ベルは鎖の呪文を見ただけで解き明かしてしまった。レモニカは自分が泣いていることも忘れて感心する。
「じゃあ、解いちゃってよ」とユカリは簡単に言う。
「ワタシはいいけど、泥棒するの?」
ユカリは真面目な顔で首を横に振って言う。「借りるだけ。元型文字を手に入れたら返せばいいよ」
ベルは鎖の反対の端の、鉄格子の一つに繋ぎ止められた環に触れ、躊躇いなく呪文を唱え始める。鎖の魔法を解きほぐす言葉がその戒めの呪いに染み込んでいく。初めて人のために詠われた古い詩を、多くの鳥にも通じるという群島の言葉で唱え、怯える犬を宥める手つきでレモニカを戒める鎖を撫でる。
レモニカにもその鎖から魔法が失われていくのが分かった。口に咥えた鎖が零れ落ちそうになる。今でもすぐに吐き捨てられそうだ。しかし、レモニカは噛み締めたまま離さなかった。レモニカ自身にもそれがなぜなのかは分からなかった。
「あれ? 何でだろう」
ベルは鎖を見つめたまま首をひねる。何度か引っ張られ、レモニカの頭が揺れる。
ユカリがベルの元へ行き、不思議な魔法で輝かしい杖を空中から取り出し、鎖の環に触れると、環は簡単に破壊された。
壊してしまっては、借りるだけでは済まないだろう、とレモニカは思ったが口には出さなかった。
ユカリは再びレモニカの元に戻ってきて口元の鎖の環を破壊する。地面に落ちた鎖を拾い上げるベルにユカリは勝ち誇るように言う。
「私の勝ちだね」
「まだだよ。まだ負けてない」
ベルは見落としはないかと鎖の呪文を読み直す。
その時、背後から、舞台と舞台裏を仕切る幕からコドーズ団長が現れた。冷たい眼差しで二人の少女を見つめ、鞭を構えてゆっくりとゆっくりと静かに近づいてくる。
二人は鎖に集中していて気づく様子はない。レモニカは鎖を噛み締めて震えていた。
レモニカの震えに気づいた様子でユカリは顔を上げて言う。「ねえ、ケブシュテラ」そして手を差し出す。「震えてるの? 怖いなら、ここから逃げる? 手伝うよ?」
コドーズ団長の鞭など何が怖いものか、とレモニカは心の中で呟く。では何を怖がっているのか、と自問する。本当に恐れているのは……。
レモニカは鎖を吐き捨て、そして叫ぶ。「逃げて!」
「この! がきども!」
コドーズ団長が怒鳴ると同時に鞭を振るうがレモニカが間に入り、盾となって身に受ける。そしてさらに叫ぶ。「行って! 早く!」
ベルニージュが鎖を回収して、二人は天幕の外へ飛び出して走り去った。そしてレモニカは獅子の姿へと戻る。
コドーズ団長も天幕を持ち上げるが、とても追いつけないと判断したのか、くぐらなかった。
「どういうつもりだ? ケブシュテラ」振り返ったコドーズ団長は歯を剥き出して、憎き獅子を鞭打つ。何も答えないレモニカに何度も何度も鞭を振るう。「やっぱりお前、口が利けたんじゃねえか! 元は人間かもしれねえと聞いてはいたが、よくもまあ長いこと黙ってたもんだ。何か言ってみろ!」
しかしレモニカは呻き声すら漏らさずにただじっと耐えていた。
「何だって、あのがきどもは魔法の鎖を盗んでいったんだ? ただのこそ泥か!? おい! ケブシュテラ! 言ってみろ!」それでもレモニカは黙っている。コドーズは息が切れるまで鞭を振るい、それでもレモニカは口を開かなかった。「まあいい。お前のつまらねえ慈悲はともかく、お前自身は大人しくここでこうしている。お前は俺のことがよく分かっているようだ。だがな、次に妙な真似をすればただじゃおかねえ。たとえ稼ぎ頭のお前であってもな、ケブシュテラ」
コドーズ団長はそれだけ言うと、仕事へと戻った。