コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
冬が勢力を広げるにつれ太陽は衰え、肌を粟立たせる風の吹く時季、一日の終わりを告げる大伽藍の鐘が響き、夕餉の煙が方々に立ち昇って黄昏色の空に触れる。煙が冴え冴えとした星々の元へやってきて、昼の地上で起きた出来事を面白おかしく知らせた。そうして慌ただしく過ぎ去る地上の営みを嘲笑うように星々が瞬く頃、経由地市という大きな街の外れの草枯れた原っぱでユカリはベルニージュと共に焚火を囲んでいた。
ぱちぱちと楽し気に爆ぜる焚火に手をかざしながらユカリは焙った麺麭を頬張り、ベルニージュの作業を見つめている。
ベルニージュの手には収穫物であるところの鎖が握られ、鎖は油に濡れて焚火に照り光る。
ユカリは心配そうにベルニージュの手元を覗き込んで言う。「気を付けてよベル。手まで燃やさないようにね」
「燃えても治せるから大丈夫」
「それは大丈夫って言わない」
ベルニージュは焚火のすぐ隣で、油に濡れた鎖を決まった形で地面に置いていく。”燃え立つ鎖に縛られる”という魔導書の衣の詩の一節になぞって、【呪縛】の禁忌文字を鎖で作る。概ね文字を形作ると、鎖の端を焚火のそばに持ってきて、ベルニージュは期待に満ちた眼差しをユカリに向ける。
「ユカリ、いくよ」
「あ、ちょっと待って」と喉につかえた麺麭を飲み込みつつユカリは言った。
鎖から手を離しそうになったベルニージュが慌てて堪える。
「何? どうしたの?」
「いま気づいたんだけど、【呪縛】を使った呪文が近くにあるとまずいよね? 前の時みたいに一時的に周囲で【呪縛】の力が失われるんでしょ? マデクタの街の人々が困らない?」
ベルニージュは少しだけ考え、しかしすぐに首を横に振る。「そうだけど、日常で使うような魔法に使われる文字ではないよ、【呪縛】なんて」
「そうなんだ? それなら良いけど。もうあんなのは御免だよ」
ユカリはアルハトラムの城壁の大崩壊を思い浮かべて言った。湧き立つ土煙は呪われし恵ヶ原の亡霊のように渦巻き、アルハトラム市民の嘆きと憤りを食らって太ったかのように膨らんだ。
「ああいうことはそうそう起きないよ。あれだって城壁自体が古くなければ起こらなかったことだろうし。さあ、いくよ。また光るだろうから気を付けて」
ベルニージュが鎖の端を焚火に投げ込むと、夏の終わりの贖い蛙のように貪欲な炎が油に食らいついて一気に鎖全体を覆い、地面に形作られた【呪縛】が燃え上がる。それと同時に眩いばかりの不思議な白光を放つ。とても炎の光では出せない輝きにユカリの視界が隠される。
しかしそれも一瞬のことだ。光は欠片も残らず消え失せ、相変わらず焚火も鎖もぱちぱちと燃え上がっている。二人は燃え上がる鎖に冷たい土をかけて消火した。
ベルニージュは早速魔導書の衣を僅かに翻し、裏地に記された【呪縛】が仄かに光っていることを確認する。
「さて、次はどの文字にしようか」ベルニージュは膝に魔導書の衣を被せ、焚火にかざした手を揉む。
「気が早いね」ユカリは残りの麺麭を飲み込んで言った。
「完成するまでは気を抜く意味がないって」ベルニージュは魔導書の衣の裏地に目を落とす。「いつでも出来そうなのと難しそうなのは後回しにするとして、【豊饒】か【追跡】か」
「次を何にするにせよ、明日は鎖を返しに行かないと」
ユカリはまだ少し熱い鎖から土を取り除きながら言った。
「本当に返すんだ? もはや挑発にしかならないと思うけど」
「もちろんだよ。盗んだわけじゃないんだから」
ベルニージュの赤い瞳がじっとユカリの紫の瞳を覗き込む。
「盗んだわけじゃないんだからね」とユカリは繰り返す。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
少女の中の仮初の温もりはいつの間にか消えていた。
「何だか初めて会った気がしない」と少女は呟いた。
「もしかして口説かれてる?」と言って彼女は笑った。
明くる朝、まだ日の昇る前、静寂の揺蕩う野原で朝露の滴る音が響き、最後の星が名残惜しそうに夜闇とともに消え失せる頃、ユカリは燠火の燻る焚火のそばで、温い水面に浮かぶような眠りからゆっくりと目覚める。
よく見る夢の輪郭が徐々にはっきりとした形になっていることにユカリは気づいていたが、その意味についてはまだ分かっていなかった。
旅の連れは相変わらず形容しがたい寝相で眠っていた。ユカリが震える体を抱えてグリュエーと共に再び火を焚くと、ベルニージュもまた温もりに揺り起こされたかのように目覚める。そして、そろそろ野宿が命に関わる季節だということをお互いに確認した。
「冬除けのまじないにも限界がある」とベルニージュが寝ぼけ眼で呟く。
「そんなまじないを使って冬は怒らないの?」とユカリは大きな欠伸をして言う。
「そんなの考えたこともない。ユカリが今度聞いておいて。ご機嫌いかがって」
「もし機嫌が悪かったら私はどうなっちゃうの?」
未だ夢の中にいるようなとりとめのない会話をしつつ、干物や乾物の行糧を摂る。その後、昨夜の続きを話し合った結果、ユカリが鎖をコドーズ団長の見世物小屋に返しに行き、ベルニージュは次の禁忌文字完成に必要そうな物を買出しに行くこととなった。
東の空が白み始めると共にまだ寝静まるマデクタの街へと出かけ、二人は各々の用事のために別れた。
古くから人々の住む街だが、記されたる歴史はまだ浅い。大きく栄えたのは近年になってからであり、この街は地層のように、樹木の年輪のように、地区ごとに姿を様変わりさせる。最も古い土地には最も古い家々が立ち並び、伝統的な紺塗の壁と切妻屋根が立ち並んでいる。一方、比較的新しい地区の建築はあまり伝統にはこだわらない。鉱物に詳しい魔術師の用意した色彩豊かな煉瓦を用いて複雑な嵌石細工を描いているものもある。新旧の地区の建築物で共通することといえば、雨や雪の少ない土地に特有の傾斜の緩やかな屋根と、新旧の違いなど気にせず屋根裏に棲む者たちの息遣いだけだ。
ユカリは、街の中でも比較的新しい広場にやって来る。石材の舗装は美しい環を描き、周囲に植わる菩提樹は寒々しい季節に相応しい支度を整えていた。舗装を除けば飾り気のない広場には人影もなく、マデクタの街はようやく微睡みから目覚め、古くから続く営みを謳おうと身を揺すり始めたところだ。
その広場に滞在しているくたびれた見世物小屋はまだ深い眠りについている。薄汚れた麻の天幕も静けさに包まれており、中の様子はまるで分からない。ユカリは肩にかけてきた鎖を片手で抑えて、昨日と同様に、しかし昨日よりも遠慮なく天幕をくぐる。
天幕の中もやはり静かだった。人の近寄らない森の奥の、昼の生き物も夜の生き物も眠る時刻においてもこれほど静かなことはない。それでいてその静寂にはどこか肌に張り付くような気配があった。ユカリは、昨日は気づかなかった怪物や珍しい動物の鼻を顰めたくなるような臭いに気づく。
天幕は客の前に立つ舞台と舞台裏に幕で仕切られている。舞台裏にいくつもある大小の檻が空になっている。昨日までは確かに一つ一つの檻の中に沢山の生き物が入っていたはずだ。
空になっていない檻もまだあるが、数少ない。不思議な生き物たちはまだ眠っているか、起きていても大人しくしている。
ケブシュテラは獅子の姿で、仕切り幕の近くで体を横たえている。すぐに侵入者に気づき、ユカリに驚いている様子だが、体勢を変えずに黙ったまま、ただじっと見つめている。獅子の姿だという事は最も近くにいるのは、あの見世物小屋の主、コドーズという名の団長ということだが、姿は見えない。おそらく仕切りを挟んだ舞台の方にいるのだろう。
ユカリは肩にかけた鎖を降ろし、適当な場所に置いておく。コドーズ団長に謝罪と礼を言うのは挑発的だろうかと迷っていると舞台の方から怒鳴り声が聞こえてきた。コドーズ団長のざらざらとした声だ。
ユカリは静かに仕切りの方へと忍び歩き、聞き耳を立てる。それを咎める者は誰もいなかった。
「がきどもめ! 奴らの他には居ねえんだ! あいつらが俺の商売道具を盗んだ泥棒に違いねえ!」
「子供に何とかできる檻や鎖ではないんですがね」団長とは別に、女性の明るい声も聞こえる。「他に類を見ない魔法の檻ですよ。団長さんてば、何かと勘違いしておられるのでは?」
団長は勢い止まらず怒りのままに怒鳴り散らす。「実際開け放たれてたんだよ! お前から買った品だぞ! どう責任取ってくれるんだ!?」
「責任と仰られてもねえ。原因が分からないことには何ともかんとも。私のお売りした品全てというわけではありませんし。ま、調べてはみますがね」
「一口産の石像も悲嘆鳥も盗まれたんだ。いったいいくらしたと思ってる! 商売あがったりだ!」
「でも稼ぎ頭は逃げなかったんでしょ? 運が良いじゃないですか」
「なんだと!?」
「いえ、何でも」
どうやら見世物たちが逃げ出してしまったらしい。破壊したのはケブシュテラが手放せなかった呪いを帯びた鎖だけなので、他の鎖や檻に関しては冤罪のはずだ、とユカリは考えるが無実の訴えをぐっと飲みこむ。