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夏の雲が上空を穏やかに流れる朝、少し緊張した面持ちの慶一朗が、まだ時間が早いために交通量の少ない道に愛車を走らせていた。
ステアリングを握る手は甲に薄く痣が浮かんでいたが、痛みを感じている様子もなく、顔の緊張感も手にまでは伝わっていないようだった。
車の上を着陸準備に入ったらしい大きな機影が通り過ぎ、窓を開けて一つ溜息を零した慶一朗は、空港の駐車場に車を滑り込ませ、遠路はるばるやってくる人を迎えるために入国ゲート近くのドアを潜る。
入国ゲートがある入口付近は早朝にもかかわらずに人がいて、世界各国からの飛行機が到着した事を教えてくれていた。
その中の一機に、今一番会いたくて会いたくない人が搭乗しているのだが、会えば必ず心配されるか叱られる事が分かっているため、会いたくないという慶一朗にしては珍しい気持ちが頭を擡げていた。
その相反する気持ちを抱えたまま入口近くの柱に背中を預け、少し離れた場所で表示が変わる到着便の案内板をちらりと見つめた後、緊張感を和らげようと溜息を零す。
それが足元のアイボリーのタイルに落ちる直前に影が視界に入り、何事だと顔を上げれば、久しぶりに直接見ることが出来た顔が少しだけ眠そうに眼鏡の下の目を一つ瞬かせて立っていて。
「─────おはよう、ケイ」
その声を聴いた瞬間、慶一朗の中にあった会いたくないという思いは一瞬で掻き消え、しがみつくように腕を回して抱きしめる。
「・・・おはよう、ソウ」
無事に到着して良かった、機内ではゆっくりできたかと、半年ぶりに再会した兄、総一朗を出迎えた慶一朗は、一度顔を見るために距離を取るが、半年前と何ら変わっていない様子に安堵し、再度その背中を抱きしめる。
「ヒロからお土産を預かってきたぞ」
「一央から?」
お前の恋人、一央は何を持たせてくれたんだと、兄の手が己の背中をポンと叩いたことに気付いて同じ高さにある顔を見つめると、お前が喜ぶものとしか教えられていない、だからそれを開けるためと空腹と疲れを落とすために家に行こうと笑われ、それもそうだと頷いて車のキーを手に取る。
「今回は2週間だったか?」
「ああ。今日の夜は飲み会だな。明日は午後から市内で会議がある」
「そうか。まあ後でまた教えてくれ」
とにかく今は駐車場で待っている車に乗り、自宅に戻っても良いしどこかで朝食を食べても良いと笑う慶一朗に総一朗も頷き、まだ朝食は食べていないのかと問いかけながら駐車場へと肩を並べて歩いていく。
「・・・・・・」
「ケイ?」
車に乗物を載せ助手席に乗り込んだ総一朗が弟の顔がやけに緊張している事に気付き、何があったと問いたいのを堪えて返事を待つと、ステアリングに顔を伏せた慶一朗の口から聞き取りにくい小さな声が、やってしまったと呟いた為、驚きつつも何も言わずに己とよく似た色合いだが手触りが少しだけ違う髪を撫でるように手を載せる。
「・・・手の痣があるということは、昨日か一昨日か?」
「・・・昨日」
「そうか・・・今はとにかく家に行かないか、ケイ?」
お前が何に緊張しているのかは分からないが、シャワーを浴びたいから家に行こうと笑い、弟の髪をくしゃくしゃに乱した総一朗は、慶一朗の手の痣についてはそれ以上何も言わず、腹も減ったと笑って話題を逸らすのだった。
半年ぶりに足を踏み入れた弟の家は兄からすれば変化が無いように思えたが、リビングのソファ横を陣地としている大きなぬいぐるみには何故かタオルが引っ掛けられ、ソファの対面にあるテレビボードにはぬいぐるみと同じキャラクターのフィギュアの色違いが並べられていて、また買ったのかと振り返ると、弟があからさまに顔を背け、目が合ったからと訳の分からない言い訳を始める。
「目が合ったから買ってきた?」
次にここに来ればテレビボードはここにいる色取り取りの宇宙人のフィギュアに乗っ取られているんじゃないかと笑い、そうかもしれないと慶一朗も肩を竦める。
「前に送った模型は・・・」
「・・・・・・た、ぶん、壊れてないと、思う」
ひと月ほど前だろうか、ドイツに出張で出かけた際に現地から送った鉄道模型は気に入ったかと何気なく問いかけた総一朗だったが、返ってきた答えが壊れていないと思うとの言葉だったため、眼鏡の下で目を瞬かせた後、先程よりも緊張した顔で俯く慶一朗の頭に手を載せ、いつも言っているが怒ってなどいない、怪我をしていないか心配しているだけだと俯く顔に告げると、意を決したように同じ顔が上げられるが、言葉は何も出てこず、代わりに拳の形になった左手が恐る恐る差し出される。
「・・・手当は?」
「・・・一応、した」
切り傷はワセリンを塗っておいた、利き手じゃないから大丈夫と小さな声で言い訳をする慶一朗に溜息を一つ零した兄は、頭に載せていたその手を肩に置いた後、そのまま力を入れて抱き寄せる。
「・・・ソウ?」
「手以外に痛い所はないか?」
逃げられないような強さではないがその気が起こらない優しい腕に抱き寄せられて目を見張った慶一朗に、限られた人しか聞くことのできない優しい声が他にけがはしていないのかと問いかけてきた為、大丈夫と頷きつつ総一朗のシャツの背中をぎゅっと握りしめてしまう。
「あ、ああ、大丈夫」
「本当に?」
その問いかけに慶一朗の中にあった何かが出口を求めてせり上がり、喉の奥から奇妙な声と共に溢れ出す。
「・・・少し前、テレビを見ていたら・・・」
日本の番組が流れ、見たくない顔が出ていた。それと前後して平気だと思っていたが職場で日本食について聞かれ、我慢できなかったと兄の肩に口元を押し当てて吐き出したいが押しとどめたい思いを、感情的になれば自然と出てくるドイツ語でシャツに向けて呟くと、そうかとだけ同じドイツ語が返ってくる。
「Scheiße!!」
くそ、もう平気になったと思っていたのに、どうして日本に関係するものを見聞きするだけで苦しくなるんだと総一朗の背中にしがみつくように腕を回して何度もクソと吐き捨てるが、その時、慶一朗の脳裏に浮かんでいたのは、テレビで見た憎しみの対象でしかない祖父の顔やそこから自然と連想される両親の顔ではなく、あの時、とてつもない苦しみを己に与えてしまったのではという後悔に染まる、心優しい小児科医の顔だった。
あの時、不意に問われて醜態を曝してしまったが、それよりも何よりも、彼にあのような表情を浮かべさせた己が許せなかった。
高校卒業と同時にこの国に留学し、それ以来生活の場を日本ではなくこの国に定めて働き始めたが、当時は日本という国からやってきた己は同級生たちからすれば珍しい存在だったようで、母国についてそれこそ慶一朗自身が知らない日常生活の事について話題になり、いちいちそれに反応していては心が壊れると気付き、一見するだけでは日本人と思われない外見を利用してプライベートの話はほとんどしてこなかった。
だが、先日のランチタイムのカフェで、隣に引っ越してきた同僚の小児科医であるリアムが日本について質問し、ガードを緩めていた為にやり過ごすことが出来なかった。
その結果の、すべての罪を背負ったような笑顔と称した表情を浮かべさせてしまったのだ。
あの時、リアムに告げた言葉は己が常々思っていることで、己が考えている言葉が出てくるのは当然だったが、その言葉も押しとどめることが出来ず、ただただ彼に申し訳なかった。
「・・・クソっ!」
テレビを通して見てしまった祖父、芋づる式に思い出される両親の顔と己の過去。そして、親交を深めていたリアムにあのような顔をさせた罪悪感。
その一連の流れが苦しくてつい二階のジオラマ部屋と己が呼んでいる部屋に入った後、我慢できずに大声を張り上げて床に設置し模型を走らせていたジオラマを壊してしまったのだ。
床のものを壊すだけでは気が済まず、握り締めた拳を壁に叩きつけようとし、それが右手だと気付いて咄嗟に左手で壁を殴ったのだが、一度殴るだけでは無く何度も壁を殴りつけた結果、時間と金と愛情をかけて作り上げたジオラマが無残に壊れた姿を見る勇気がなく、左手の痣にも気付かずにそのまま家を飛び出したのだ。
昨日の夜の事を思い出した慶一朗は、感情が爆発した時にいつもこうして兄が宥める様に抱きしめてくれることを思い出し、本当に情けないと自嘲すると、背中に回った手に力が籠められ、何も情けないことなどないと強い声が慶一朗の声を否定する。
「・・・気にするな、ケイ」
その声は己には優しくて、ありがとうと礼を言う慶一朗だったが、その言葉の奥に秘められている感情を薄々と察していて、自分自身だけではなく兄も縛り付けてしまう己の過去、ひいてはその存在に嫌気がさしてくる。
己がいなければ、きっと総一朗はこんな情けない弟の相手などせず、好きな研究を祖父や両親の助力を得ながら好きなだけ出来ているだろう。
十歳の夏、大阪の祖父母の家に遊びに来た時、大人の目を盗んで初めて出会ったが、あの時に出会わなければこんなことにならなかったのではないか。
そして、出会ってまだひと月の、隣に暮らし、職場も同じ心優しい小児科医の心に罪悪感を植え付けなくても済んだのではないか。
その、慶一朗の中にいつも存在する後悔と新たなそれが喉をせり上がり、言葉となって流れ出す前に手で押さえつけようとするが、慶一朗の心の動きを読んだらしい総一朗が己と瓜二つの頬を両手で挟むと、脅えるような目を真正面から見つめる。
「・・・っ!!」
「ケイ、いつも言っているな? お前は悪くない」
悪いのはお前をずっと閉じ込めていた大人たちで、お前には何の責任もないと、ただ弟の心を落ち着かせたい一心で告げた兄だったが、慶一朗の口が開閉するだけで言葉が流れ出してこない事に気付き、リビングのソファに強引に座らせると、向き合うように己も腰を下ろす。
「どうした?」
「・・・俺が、いなければ・・・っ!」
俺さえいなければ、お前はもっと好きなことの研究に打ち込めるだろうし、あいつにもあんな顔をさせずに済んだのにと、顔を歪め総一朗の胸元を握り締めながらようやく振り絞るような声で小さく叫んだ慶一朗の頬を再度両手で挟んだ総一朗は、初めて出会ってから同じ中学高校と通えるようになってからも行っていた、二人にとっては当たり前の事をする為、慶一朗の額と額を重ね、お前がいなくなれば悲しいし辛い、だからそんなことを言うなと告げ、でもと言い募る弟にうんと頷く。
「俺はお前と出会ってから夢が大きくなったし、それを叶えるために努力してきた」
お前がいなければ夢を持たずにただ日々を生きるだけのつまらない人生を送っていると心の底から思っている事を告げると、慶一朗の目が限界まで見開かれる。
「だから、お前がいなければなどと言うな。お前がいない世界なんて俺には必要ない」
中学の入学を認めさせるとき、山頂の遊園地の柵に二人で立ち、慶一朗と一緒に生きていく、それを叶えてくれないのならここから飛び降りて死ぬと父親を脅迫した夜を思い出せと笑うと、慶一朗の目にあの夜と同じ光が浮かび上がる。
「ソ、ウ・・・っ!」
「お前がいなけれればドイツで模型を売っている店に行くこともなかった。そこで知り合った医者と仲良くなることもなかった」
お前の存在が俺の人生を豊かにしてくれている、だからいなければよかったなどと言うな、その言葉を取り消してくれと笑うと、慶一朗の顔が一度伏せられるが、小さく上下に揺れる。
「・・・う、ん」
「うん。・・・ところで、ケイ、あいつって誰の事だ?」
さっきお前があいつにあんな顔をさせずに済んだと言ったがそれは誰だと問えば、慶一朗の目が驚きに見開かれ、そんな事を言ったかと呟いた為、苦笑しつつ頷く。
「・・・・・・リアム、だ」
「リアム?」
「ああ・・・前に少し話しただろう? 新しく病院にきた小児科医で、隣のフラットに住んでいるって」
リアムの存在を知るだけでは無く、優秀である事が判明した日、食事に一緒に出かけたのだが、その夜、総一朗に面白い男と知り合ったとメッセージで伝えていたのだ。
それを覚えていないかと問われて思い出した総一朗は、その彼にどんな顔をさせてしまったんだと問いかけつつ弟の顔を覗き込むと、あの日と同じ言葉が流れだす。
「────全ての罪を背負ったような顔」
「・・・・・・」
その一言に総一朗は返す言葉を持たずにいたが、慶一朗が肩を竦める事で気分を切り替えたのか、伸びをする為に突き上げた手を総一朗の肩に回し、さっきとは違う想いから兄の身体を抱きしめる。
「どうした?」
「・・・・・・何でもない」
こうしているだけですごく安心できると、総一朗の肩に頬を当てて小さく呟く慶一朗の髪を撫で、そろそろ腹が減ってきたしシャワーを使いたいと苦笑すると、不満そうな吐息が一つ零れ落ちる。
「メシを食ったら部屋を片付けよう」
「・・・・・・ぅ」
「朝食になりそうなものはあるのか?」
さすが双子の兄だけあり、遠く離れた国で暮らす弟の日常生活が破綻しかけていることを良く知っていて、冷蔵庫の中はビールだらけだろうと眼鏡の下で笑うと、弟の整った顔にうっすらと赤みが浮かぶ。
「お前の好きなパン屋に行かないか?」
「・・・行く」
「分かった。すぐにシャワーをするから待っててくれ」
中学の頃からの癖のように慶一朗の頭にポンと手を乗せた総一朗は、ベッドルームのシャワーを借りるぞと告げてリビングから繋がっているベッドルームに入り、慶一朗はソファに座ったままその背中を見送る。
精神的に不安定になっている時、兄の存在は特効薬のように良く効いていた。
だが、いつまでも兄に頼っていてはいけないと思い、一人でなんとかその不安定さと向き合おうとしていたが、今のように目の前に総一朗がいるとどうしても頼ってしまい、情けないと小さく溜息を零す。
憎しみの対象である祖父や両親、その彼らを連想する日本とういう言葉を聞いただけで精神的に不安定になるなど、本当にもう大丈夫になったと言えるのだろうか。
それに、何も知らずに日本食は美味いのかと問いかけてきた彼、リアムにも申し訳なかった。
昨夜は暴れて物を壊すことでやり場のない感情を発散させたが、総一朗に話をしてすっきりしたのか、昨日のような凶暴な気持ちにならず、代わりにソファの前に鎮座している、青い電話ボックス型のぬいぐるみを抱き上げると、その重みに負けたようにソファに寝転がる。
「・・・・・・強く、ならないと、な」
何があっても倒れない、そんな強さを手に入れなければと小さく呟いた慶一朗の脳裏、罪悪感の滲んだ笑みを浮かべるリアムの顔が浮かんでいて、頼むからそんな顔をするなと小さく呟いた慶一朗は、欠伸をしてぬいぐるみを抱きしめると、そのまま自然と目を閉じてしまうのだった。
「────帰りは遅くなると思う」
「分かった。楽しんで来いよ」
リビングで出かける準備をしながら総一朗が今夜の予定を慶一朗に告げると、弟は分かったと頷きつつ家の鍵を手渡そうとするが、お前から預かった合鍵があると鍵がいくつかついているキーホルダーを顔の高さに掲げられて小さく笑う。
「そうだった」
「ああ、だから大丈夫だ」
「分かった。行って来い」
シドニー在住の友人達と再会を祝って乾杯することを教えられ、行って来いと笑顔で兄を送り出した慶一朗は、睡眠不足からくる欠伸をした後、綺麗に片付いた二階のジオラマ部屋でまた新たな風景を作ろうか、それともこのまま眠ってしまおうかと思案し、自然と足がベッドルームに向いた事に気付いて苦笑する。
「寝るか」
総一朗がいる間は休暇を取っている為、自堕落な生活をしていても問題はなかった。
自堕落な生活という言葉から連想される休暇の過ごし方を考えただけで欠伸が出た慶一朗は、ベッドルームのドアを開けて遮光カーテンのお陰で薄暗い室内の中央にあるクイーンサイズのベッドに飛び乗ると、着替えもせずにそのまま掛布団を引っ張り上げて眠ってしまうのだった。
だから、玄関を出た総一朗が、ちょうど買い物を終えて帰宅したリアムと遭遇し、事情を知らないリアムが慶一朗に無視されたと誤解したまま同僚達の飲み会に参加し、酷い二日酔いになってしまうほど乱暴な酒の飲み方をした事に当然ながら気付かないのだった。