神々の声が消えたあと、世界には、奇妙な静寂が訪れた。
天は裂けたまま縫われず、
黒い月だけが、ゆっくりと沈みゆく。
セラフィエルは、崩れた神殿の礎に身を横たえていた。
片翼は黒く焦げ、もう片方は白い羽根を残していた。
だが、その境界は曖昧で、
まるで光と闇が互いを喰らい合っているようだった。
リシアは傍らに座り、その羽根に触れた。
温もりが、まだ残っていた。
「痛い?」
その声は、かつての祈りのようにかすかだった。
セラフィエルは微笑む。
「痛みは、まだ“生きている”という証だ。」
リシアは目を伏せた。
彼女の手の甲には、黒い紋章が再び浮かび上がっていた。
それは、彼の光と引き換えに宿った“契約の印”だった。
「ねえ……もし、また神があなたを裁くなら、どうするの?」
「裁きがあるなら、それを受けよう。」
「でも——」
「だが、俺が堕ちた理由を、神は知らぬ。」
セラフィエルの声には、静かな怒りと、どこか甘い諦念が滲んでいた。
「俺は光のために生きてきた。
けれど、光が“お前”を拒んだ時、
俺は光の正しさを信じられなくなった。」
リシアの唇が震える。
「そんなことを言えば……ますますあなたは、天から遠ざかってしまう。」
「構わない。
天が俺を拒んでも、お前が俺を呼ぶなら——それで足りる。」
リシアはその言葉に息を詰めた。
胸の奥で、何かが静かに疼く。
罪と呼ばれたものが、愛と名を変えようとしていた。
——その瞬間、
空が再び裂けた。
天上より一筋の光が降り注ぎ、神殿の瓦礫を貫く。
その光の中に、
純白の鎧を纏った天使たちが姿を現した。
「堕天の者、セラフィエル。
汝の存在は、神の秩序を蝕む。」
声は冷たく、剣のようだった。
セラフィエルはゆっくりと立ち上がる。
「秩序か。……それが、誰かを救えたか?」
彼の翼が広がる。
黒と白が混じり合い、夜風の中で揺らめいた。
「俺はもはや天に属さぬ。
だが、愛した者を護ることは——天よりも正しい。」
天使たちの剣が光を放つ。
それは“罰”の光。
けれど、リシアの瞳には、その輝きがただの暴力にしか見えなかった。
彼女は叫ぶ。
「やめて! 彼は……!」
だが、言葉より早く光が走り、セラフィエルの胸を貫いた。
「セラフィエルっ!」
リシアが駆け寄る。
だが、彼の顔は穏やかだった。
「大丈夫だ……これでいい。」
「よくなんてない!」
リシアの声が震える。
彼の血が、彼女の手を染めていく。
——その血は、赤ではなかった。
金と黒が混ざり合い、夜を照らすように輝いていた。
「お前の中の光を、信じている。」
「そんなこと、言わないで……!」
リシアの涙が、彼の唇に落ちる。
その瞬間、再び世界が揺らめいた。
光と闇の境界が崩れ、黒い月が赤く染まる。
そして——
彼の胸に刻まれた“罰の光”が、ゆっくりと彼女の紋章に吸い込まれていった。
天の裁きすらも、
彼女の中で“愛”へと変わっていく。
「リシア……逃げろ。」
「いやよ。あなたがいない世界なんて、いらない。」
二人の影が重なり、
黒い月が完全に沈む。
——その夜、天は沈黙し
地は初めて”神なき夜”を迎えた。
リシアは初めて“安らぎ”を知った。
けれどその温もりの裏で、
世界の均衡は静かに軋んでいた。
愛が救いである限り、
それは、滅びの始まりでもあるのだから。







