翌日、時計を見ても朝が来たことを実感できない外の暗さの中、ウーヴェの元に朝食が届けられるが、要らないの一言でウーヴェはそれを食べる事をしなかった。
術後の体には休養と栄養が必要の為に食事をして欲しかったが、リオンがいくら声を掛けても宥め賺せてもウーヴェは頑としてそれを食べようとはせず、絶食状態が続くことはウーヴェの体に今以上のダメージを与えてしまうことからカスパルが点滴で最低限の栄養を摂取できるようにするが、その点滴をウーヴェは嫌がることもなく素直に受け入れていた。
ここに搬送されてから何も食べていないことから救出直後からウーヴェのやつれは進行していき、無精ひげも薄く伸びている為に事件前のウーヴェを知るものからすれば痛々しさから直視するのも辛い程の憔悴ぶりだった。
カスパルが折を見ては何か食べられないかとリンゴやオレンジなどのフルーツを持ってきてくれたりしたが、ベッドの背もたれを起こし、リオンの肩に凭れかかりながらぼんやりと点滴を受けているウーヴェがそれを食べることは無かった。
傍にずっと付いていたリオンにはウーヴェの胃腸が上げる悲鳴のような音が聞こえていたため、身体は食べ物を欲しているのに何故食べないのかがずっと引っかかっていた。
毎朝報告をしているヒンケルや、誰よりもその身を案じているウーヴェの家族にも食事をしないこと、何をすれば食べてくれるのかを相談するが、過去の誘拐事件の際も中々食事をしようとはしなかったことを教えられて重苦しい溜息を吐くしかできなかった。
リオンと付き合う前の食の細さを教えられ、それに戻っただけではないのかとの思いも芽生えるが、それにしては間近にいるために聞こえる身体の悲鳴が気になってしまうのだ。
何かがウーヴェの意識に食べる事を抑制させているのではないのか。
もしもそうならそれは一体何だと、ウーヴェの身体を己の肩で受け止めながら、一見すれば何も考えていないような顔でめまぐるしく脳味噌を働かせていたリオンが点滴を受けながらぼんやりと天井を見上げては溜息を吐くウーヴェにどうして食わないんだと内心で問いかけるしかできなかった。
「な、オーヴェ、腹減ってるんだろ? 何で食わないんだ?」
入院五日目の午後、さすがに理由が思い当たらない事からリオンがベッドではなく椅子に腰掛けてウーヴェの腿に顎を乗せるように上体を曲げながら上目遣いに見つめると、痩せて掌の厚みも薄くなってきたウーヴェの手がリオンの髪を撫でるが問いに答えることはなかった。
「食欲の問題じゃないよな。何かあったのか?」
食欲の有無ではないとさすがに察しているリオンが顔を上げてウーヴェに問いかけ目を覗き込めばどうしたと優しく問い返されてうんと頷くが、脳裏に浮かぶ光景が想像すらしたくないようなおぞましいものだった為に頭を一つ振ってそれを追い払う。
「いや、何でもねぇ」
「そうか?」
「うん、そう」
それよりも点滴が終われば昼寝をするのかと聞き、素直に頷かれてリオンが伸びをする。
「……俺もオーヴェと一緒に昼寝しようかなー」
「うん」
点滴という食事を終えれば一緒に昼寝をしようと笑いウーヴェの顔に小さな笑みを浮かべさせたリオンだったが、その目は笑っておらず何事かを確かめたいという思いが宿っていた。
普段のウーヴェならばリオンの言動の相違を見抜いているが事件の影響で弱っている今、そこまで読み取ることが出来ないでいた。
だからリオンの胸に耳を当てて眠りに落ちたウーヴェが自然と目を覚ましたとき、いつ離れたのか椅子でうたた寝をしているリオンに気付いて手を伸ばすが、その身体から何かが転がり落ちたことに気付く。
「?」
何か転がるようなものがあったかとそれが落ちた先を見るようにベッドで背中を浮かせたウーヴェは、艶やかな小ぶりのリンゴがベッドの足下に転がったことに気付き、ああ、リンゴかと苦笑するが、ベッドの足元にあり得ないものを発見して顔を強ばらせる。
それは家で犬や猫を飼っている人からすれば見慣れたステンレス製のボウルと陶器製の深さのある皿だった。
犬や猫などが食事をする際に使用する皿と同じく水飲み用のボウルが何故ここにあると思うと同時に、皿にはドッグフードが入っていることにも気付くとウーヴェの顔から音を立てて血の気が引いていく。
ウーヴェが誘拐されている間に口にしていたもの、それは今目の前にあるドッグフードとスポーツドリンクだけだった。
時間が来ればペットにエサを与えるように拘束されているウーヴェの前にそれが差し出され、すべて食べきらなければ男たちの鞭が背中に飛び、抵抗すれば顔を無理矢理押し付けられ食べさせられていたのだ。
その光景が自然と蘇り、もうそんなものを食べなくても良いのだ、今は病院にいて好きなものを食べて良いはずだと己に言い聞かせるが、二十数年以上昔も同じように同じものを食べさせられていた記憶が重なり合い、お前のような生まれてくるべきではなかった駄犬はドッグフードを食べさせて貰えるだけでも喜べと乗り越えたはずの過去と乗り越えなければならない過去から男女の嘲笑が混ざり合って脳内に響き渡る。
シーツを握りしめて何かを必死に堪えているウーヴェだったが、ドッグフードと水が満たされたそれを見下ろしている内に空腹の限界を通り越えた身体が動いてしまい、左足や全身の痛みなど亡失した顔でベッドから抜け出し左足を引きずりながらベッドを回り込んで皿の前に膝を着いて無意識に喉を上下させてしまう。
もう、こんなものを食べる必要はないはずだった。
リオンが何度も言ってくれたように、己は犬やペットなどではない、ひとりの人間だった。
だが、術後から何も食べずにいたウーヴェの体は空腹を通り越した飢餓状態に片足を突っ込んでいて、目の前のドッグフードの匂いが、お前にはこれで十分だという脳内で冷たく笑う男の声がまるで身体を操るっているように動いてしまうのを抑えることは出来なかった。
まるで犬や猫のようにカリカリと音をさせてドッグフードを無心に食べ続けてしまうウーヴェだったが、己の想像が的中したことに絶望すら抱いている顔でリオンが見つめていることに気付かず、空腹と同じく覚えていた喉の渇きから水を飲んでいる時に名を呼ばれて文字通り飛び上がってしまい、器をひっくり返して床に水をぶちまけてしまう。
「……やっぱり腹減ってたんだよなぁ」
「!!」
降ってきたのが記憶と違って痛みではなく痛みを感じているような悲しい声だった事にウーヴェが恐る恐る顔を上げるとそこには悲しげに眉を寄せてじっと見つめてくるリオンがいて、己がもう抜け出せたはずの悪夢に囚われて何をしたのかをリオンの表情から気付いたウーヴェの顔から一気に血の気が失せる。
「あ……ぁ……」
「ごめんな、オーヴェ。そんなのを食ってるとこなんて見られたくなかったよなぁ」
己の想像力に無性に腹を立てたようなリオンが悲しそうに笑ってウーヴェに謝罪をするが、何かを伝えようとウーヴェの口が開くものの出てくるのは発声障害が出ているのかと言いたくなるような音だけだった。
そんなウーヴェに頷いたリオンが静かにその前に胡座をかいて座り込んだかと思うと、転がっていたリンゴ-これはリオンがわざと転がしたもの-を手に取り、ジーンズで表面を軽く拭き取ると手の中で二度三度と弾ませる。
「地下室にドッグフードを入れるような皿があったなーって。もしかしてドッグフード食わせてたんじゃねぇのかなって思ってさ」
お前が寝ている間に用意しておいたと苦笑するリオンにただ蒼白な顔で小刻みに震えだしたウーヴェだったが、リオンが怒らねぇよと自嘲気味にその顔を覗き込むように見つめると、ジーンズで磨いたリンゴをウーヴェの前で囓って白い歯を見せる。
「腹減ってるならさ、そんなもんよりお前の好きなリンゴを食わないか?」
「あ、ぅ……」
「うん。ほら、ちょっと食ってみろよ」
タルトに使えばどうかは分からないがそれでも美味いリンゴだぜと己が囓った場所とは別の面をウーヴェの前に突きだしたリオンは、ウーヴェの手が震えながらも上がり、己の手に添えられたことに気付いて満面の笑みを浮かべる。
「美味いぜ」
「う……、ぅ、あ……」
「うん。俺ももうちょっと食いたいけど、お前が食ってくれるなら諦める」
だからほら一口食べてみ、と、笑顔で促されてウーヴェがリオンの手に爪を立てるように握りしめ、その痛みを顔に出さないで堪える前でリンゴに齧り付く。
「お前の好きなリンゴの味がする?」
お口に合えば良いんですがーと笑うリオンの前でウーヴェが一口二口とリンゴを食べはじめ、口の周りを果汁で汚しながら喉を上下させる姿にリオンが安堵の溜息を零す。
「もっと早く気付いてたら点滴なんかしなくてもよかったのになぁ」
気付くのが遅くなってごめんと謝るリオンを掠れる声でウーヴェが呼び、呼ばれた方もうんと頷いてウーヴェの頬をいつしか流れ落ちていた涙と口の周りの果汁を伸ばしたシャツで拭って両手で頬を挟んで額を重ね合わせ、あーあー、せっかくの美人さんが台無しだと笑う。
「床の上でしか食えないんだったらそれでも良い。世界中には床の上で飯を食う人たちもいっぱいいる。でもオーヴェは犬じゃねぇから食べるならちゃんと手を使って食べよう」
だから事件の時に与えられていたものだけが食事だなんて考えは消し去って、お前の好物やその時々に食べたいものを一緒に食べよう。
ウーヴェがリンゴを食べたこと、それだけが嬉しいというように笑うリオンに、止められない涙や鼻水、リンゴの果汁で顔中を汚しながら頷いたウーヴェだったが、約束と囁かれてリオンに抱き寄せられたことに気付き先日と同じように長い長い嗚咽を零す。
「また一つ約束が増えたな、オーヴェ」
これからまだまだいくつも約束をすることになるだろうがひとつずつ二人で決めたそれを守っていこう。そして気がつけば約束を忘れてしまえるようになろう。
リオンの言葉にただ頷いたウーヴェはリオンのシャツを涙で湿らせてしまうが、己のこんな姿を見ても笑うでも怒るでも呆れるでもなく受け入れ、その上でもうこんな悲しいことをしなくて良いと優しく教えてくれる、まるで幼い頃に父を見て感じていたような度量の大きさにその胸で子どものようにまた涙を流すが、それすらも受け入れてくれているのだと気付くと次から次へと涙が溢れてしまう。
「ア────っ……!!」
「うん。もう分かったから泣くなよ」
しがみつくように腕を回すウーヴェの背中を撫でて苦笑したリオンだったが、ウーヴェの腕を取ってその顔を覗き込み、顔から出るもの総てを流しているその様子にいけないと思いつつもつい笑ってしまう。
「っ!!」
「悪ぃ。だってさ、オーヴェ、クララみてぇに泣くからさー」
それはリオンの出身の児童福祉施設に預けられている三歳の幼女のことで、滅多に泣かないが泣くと全身全霊でもって悲しみを表現し涙に鼻水涎まで垂らして泣くため、気の毒だと思いつつも豪快に泣くその姿をついついいつまでも見ていたくなるのだとマザー・カタリーナらと笑っていると肩を揺らし、ターコイズ色の双眸を左右に忙しなく泳がせるウーヴェの鼻先にキスをするともう一度決して逆らえない強さで泣き続けるウーヴェを抱き寄せたリオンは、悔しそうに背中を一つ殴られた痛みに小さな悲鳴を上げるが、それが救出してから初めてウーヴェらしい行動だったことに自然と笑みを浮かべてしまう。
「ごめんごめん、お願い許してオーヴェ」
「……う、る……さ……っ……!」
二人でいる時もそうでない時も幾度となく繰り返したその言葉、それがウーヴェの口から途切れ途切れに聞こえてきた事が嬉しくて、オーヴェ大好き愛してると告白すると、ウーヴェの顔がリオンを真っ直ぐに見つめたため背筋を伸ばして同じように見つめ返す。
「こん、な、俺、でも……生きてて、も……?」
「うん。俺と一緒に生きよう」
「今みたいに……あ、あんな……こと、も……」
約束をしても何かの拍子に這いつくばって食べてしまうかも知れないと蒼白になりながら問いかけるウーヴェの額にキスをしたリオンは、うん、分かってると頷き、ウーヴェが愛する笑みを浮かべる。
「それでも生きようとしてくれるオーヴェが好き。やっぱりお前は本当に強い男だ。さすがにあの親父や兄貴の血を受け継いでるだけはある」
どれほどウーヴェを案じていても、リオンが良いというまでは決して顔を見せずに朝晩の電話を待ち続けられる我慢強さと信じ切ろうとするお前の二人の父の性格は、柔軟さを取り入れてお前の中に根付いているのだと憧憬の眼差しで語るリオンにウーヴェが目を瞠る。
誰よりも心配していて、本当は常に傍にいて見守っていたいだろうが、リオンが家族にだけはこんな姿を見せたくないだろうというウーヴェの思いを酌み取ってレオポルドやギュンター・ノルベルトに頭を下げて面会に来ることはまだ堪えてくれと懇願した事など今のウーヴェは知る由もなかった。
だが、今まで見ていたものに自然な強さを混ぜ込んだ笑みを浮かべるリオンからは幼い頃に己が感じていた父と兄そっくりな強さと優しさを感じ取ってもいた。
「これからもさ、ずっと手を繋いで同じベッドで寝て、美味いメシを作って一緒に食おうぜ、オーヴェ」
「……スクランブル、エッグ……?」
「そう! ハンナ特製のレバーケーゼのスープも。それを作ってくれたらお礼にお前の好きなコーヒーとミルクが半分ずつのカフェラテを毎朝作る」
交換条件でどうだと笑うリオンに釣られたのかウーヴェが小さな小さな笑みを浮かべるが、笑った拍子に目尻に溜まった涙がこぼれ落ち、それがウーヴェの心の中で芽吹いた変化に水を与えたようで、震える指先でリオンの頬を撫でたかと思うと誘拐されて以降初めて心からの笑みを浮かべる。
「うん」
「……オーヴェ……っ」
ウーヴェのその笑顔がリオンにも伝播するが、リオンの肩が震えて顔が伏せられたためウーヴェが覗き込もうと前屈みになると、胡座をかいたジーンズの上に濃い染みが一つ二つと出来ていく。
それは、今までも数える程しか見たことが無いリオンの涙だった。
今のような信じられない情けない姿を見せてまでも生きて良いのかとウーヴェは悩んでいたが、ウーヴェが誘拐されてから今までの間何よりも苦手な一人きりの時間を過ごさせていたのだとようやく気付くと、微かな安堵の嗚咽を漏らすリオンの頭を震える手で抱き寄せる。
「オーヴェ……っ!!」
ウーヴェが抱き寄せて悪かったと、さっきまでの謝罪とは全く違うそれを何度も繰り返している事に気付いたリオンは、ずっとずっと堪えてきた思いを抑えることが出来ず、ウーヴェの背中の傷を忘れて腕を回してきつく抱きしめてしまう。
腕の中で聞こえるウーヴェの微かな痛みの声に気付きつつも力を緩められず涙も抑えられなかったリオンだったが、感情の高ぶりが一段落ついた頃、患者が着る服の袖で涙を拭かれたことに気付き、照れ笑いを浮かべた子どものような、だがそれ以上に晴れ上がりの青空のような笑みが浮かび上がる。
「オーヴェ、俺のオーヴェ。Du bist mein Ein und Alles.」
監禁されている時にモニター越しに聞かされた告白を吐息が届く距離で告げられたウーヴェは、一度目を閉じて深呼吸をした後ゆっくりと目を開けてリオンを見つめると、もう一度リオンと同じような笑顔でうんと頷く。
「……リオン、リーオ……俺の、太陽……!」
「うん」
随分と久しぶりに聞いた気がするとリオンが笑いウーヴェも照れたように笑うが、どちらからともなく顔を寄せると、今だけはなにも考えずにそっと震える唇を重ね合わせる。
「……あぁ、オーヴェだ」
一度離れた唇の間に吐息とともに零れたその言葉にウーヴェがうんと頷くと、リオンの頬を両手で挟んであの時の言葉は間違いではないと伝えるようにキスをし、何度か角度を変えて満足したあとにそっと離れると、リオンがウーヴェの手を取って立ち上がらせるが、足元を見下ろして苦笑しつつウーヴェを抱き上げる。
「リオン、大丈夫だ」
「俺がやりたいのー」
俺のやりたいことの邪魔をするなと笑うリオンに眉尻を下げたウーヴェだったが、ベッドはすぐ傍にあると告げるとそれ以上無粋なことを言うなと睨まれてしまう。
上目遣いでリオンを見上げそっとそっと貴重品を扱う手つきでベッドに下ろされたウーヴェは、明日の朝食は食べてみると伝え、感情の露出で疲れた身体が眠りを求めている事を欠伸で伝えると、リオンが椅子を引いてここで見守っているからと伝えるが、ウーヴェの目尻が少しだけ赤くなりながらもお前の胸の音を聞きたいと告げられて目を瞠る。
「ああ、そうだったな」
「……うん」
「はいはい」
俯くウーヴェに仕方が無いんだからーと陽気な声で告げてベッドにもぞもぞと入り込んだリオンは、子供じみた事を言いながらもすぐさま寄りかかって来ないウーヴェに苦笑し、肩を掴んで引き寄せるとようやく頬が胸に宛がわれる。
「おやすみ、オーヴェ」
「……うん」
「夢を見ても俺がいるから大丈夫だよな」
「うん」
短いやり取りをし寝るにはまだ早い時間だったが身体が疲れているのだからとウーヴェを甘やかすようなことを囁き、己の鼓動に合わせて穏やかな寝息を立て始めたウーヴェのこめかみにキスをすると、何事かを決意したような顔で天井を見上げ、足音を立てずに入って来ては床の惨状を見て目を見張る主治医に大きな山は越えた気がする、後は検査結果だけが心配だと伝えて大きな欠伸をするのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!