ヴェルの寮の部屋は、
夜の静寂に包まれていた。
そっと固定電話を握りしめる彼女の手はわずかに震えていた。
かける相手は「母」である。
ヴェルは深呼吸を繰り返し、意を決して通話ボタンを押した。
家族との関係は、彼女にとって凍てつく刃のようなものだった。
「もしもし。ヴェル?」
電話の向こうから、母の声が聞こえた。
抑揚のない、冷たく突き放すような声。
ヴェルの胸が締め付けられる。
「うん、私。」
ヴェルの声は硬く、感情を押し殺していた。
「あの、友達を家に泊めたいんだけど。いい?」
「友達? お前に出来るもんなんだ?」
母の声には明らかな苛立ちが混じっていた。
「魔法学園で変なやつとつるんでるんじゃないだろうな。」
「変な人じゃない……!1泊だけだから。いいよね?」
ヴェルは言葉を慎重に選んだが、声はわずかに震えた。
母との会話はいつもこうだ。
まるで彼女の存在自体が母にとって面倒なのだ。
「はぁ、勝手にしろ。部屋くらい空いてる。」
母は投げやりに答え、すぐに話題を切り上げた。「用が済んだなら切るよ。忙しいんだ。」
「う、うん。分かった。」
ヴェルは小さく答えたが、電話はすでに切れていた。
彼女は携帯を握ったまま、唇を噛んだ。
「やっぱり……母さん、変わらないな。」
ヴェルにとって家族は恐怖の対象だった。
両親の無関心と、時には言葉や態度で突き刺すような扱い。
幼い頃から、ヴェルは両親やその周囲から疎外され、まるで存在しないかのように扱われてきた。
彼女が魔法学園に進んだのも、そんな環境から逃れるためだった。
「でも、レクトのためだ。絶対、笑顔にしてみせる。」
ヴェルは自分を奮い立たせ、ベッドに寝転がった。
心のどこかで、母の冷たい声がまだ響いていた。
ヴェルは、
レクトの疲れた顔を思い出すたびに胸が痛んだ。
エリザとの戦いを終えた彼は、
身体も心も傷ついていた。
魔法の暴走、家族との確執、そして隠さなければならない過去の罪。
レクトの肩には、
子供一人では背負いきれない重荷があった。
ヴェルは、親友である彼をなんとか元気づけたいと思っていた。
そして、彼女の頭に故郷の風景が浮かんだ。
キリサキ町。山と川に囲まれた小さな田舎町。
ヴェルが育った場所であり、彼女にとって苦い記憶の詰まった場所だった。
貧しく、閉鎖的な環境で、
ヴェルはいつも除け者扱いだった。
母の冷たい視線、周囲の蔑むような囁き。
それでも、彼女には一つだけ心の拠り所があった。
神社の裏にある秘密基地。
あそこなら、レクトを笑顔にできるかもしれない。
ただひとつの懸念点。
あまりにも遠すぎて、日帰りで遊ぶにはとても時間が足りないということ。
「嫌な思い出ばっかりだけど、あそこにはカズハとの時間もある。レクト、絶対楽しませてやるッ!!」
週末、ヴェルとレクトは列車に揺られ、キリサキ町へと向かっていた。
車窓の外には、緑の山々と田んぼが広がり、
遠くで川のせせらぎが聞こえるような静かな風景が続いていた。
レクトは窓に額を押し付け、ぼんやりと外を眺めていた。
ヴェルは隣に座り、彼の疲れた横顔をそっと窺った。
「なあ、ヴェル。なんで急に地元に帰るなんて言い出したんだ?」
レクトがようやく口を開いた。
声には疲れが滲んでいるが、どこか好奇心も感じられた。
「んー、なんとなく!
レクト、最近元気ないじゃん?
だから、ちょっと気分転換したくてさ。、
でも、本当に来てくれて嬉しいよ。
半分断られると思ってたから」
ヴェルは明るく笑ってみせたが、心の中では母との再会を思うと胃がキリキリした。
それでも、レクトのためなら耐えられる。
「ふーん。
ヴェルの地元、どんなとこなんだろ。…
…というか、断るわけないじゃん、友達の約束なんだから」
レクトは少し興味を示し、窓の外に目をやった。
「そっか……きっと、喜んでくれると思うよ!」
キリサキ町に着くと、
駅前の小さな商店街が二人を迎えた。
古びた看板、のんびりした空気、そして遠くの川の音。
レクトは新鮮な気持ちで周囲を見回した。
「なんか、落ち着くな、ここ。」
「でしょ? 住んでたときは嫌いだったけど、こうやって見ると悪くないかも。」
ヴェルは肩をすくめ、駅前の道を歩き始めた。
「さ、行くよ! 私の家、ちょっと遠いけど歩けるから!」
ヴェルの家は、町外れの古びた一軒家だった。
木造の外壁は色褪せ、庭には雑草がはびこっている。
玄関を開けると、母が無表情で立っていた。
彼女の目はヴェルを一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように逸れた。
「ただいま。」
ヴェルの声は小さく、どこか怯えた響きがあった。
「ふん、帰ってきたのか。」
母は冷たく言い放ち、レクトに視線を移した。
「そいつが友達?」
「……う、うん」
「どっかで見たことあんな……………………。
まぁ、勝手にしろ。部屋はそこにある。」
母はレクトの顔をじっと見つめたが、気にとめなかった。
顔を知っていて当然である、なぜならレクトは名門サンダリオス家の元一員なのだから。
そして、
母は無言ですぐに台所に戻った。
まるでヴェルの存在が空気のように扱われている。
レクトは気まずそうにヴェルを見た。
「あの……大丈夫?」
「うん、平気平気。この町ホテルないから、泊まるならここしかないんだ……。」
ヴェルは無理やり笑顔を作り、
レクトを自分の部屋に連れ込んだ。
狭い部屋には、簡素なベッドと小さな机があるだけ。
壁には、ところどころ穴と、幼いの頃の落書きがうっすら残っていた。
「なんか、ヴェルの家……変な感じだな。」
レクトがポツリと言った。
「でしょー?
家族と仲良くないって、前に言ったじゃん。」
ヴェルはベッドに腰を下ろし、肩をすくめた。
「みんな、私のこと嫌いだからさ。小さい頃から、ずっとこう。まぁ、慣れたけど。」
レクトは黙って頷いた。
彼自身、家族との問題を抱えている。
だから、ヴェルの言葉には共感できる部分があった。
「もう今日は遅い、寝よっか!」
翌朝、
ヴェルはレクトを連れて町の奥にある神社に向かった。
キリサキ町の神社は、
山のふもとにひっそりと佇んでいた。
鳥居をくぐり、石段を登ると、木々に囲まれた静かな境内が現れる。
だが、ヴェルの目的地は神社の裏手だった。
「ここ、裏に回るよ。」
ヴェルはレクトの手を引き、木々が生い茂る空き地へ向かった。
そこには、朽ちかけた木製の看板が立っていた。「カズハとヴェルの秘密基地」と、子どもらしい字で書かれている。
「秘密基地?」レクトは目を丸くした。
「うん。昔、私とカズハって友達が作ったんだ。ここで、いろんなことして遊んでた。」
ヴェルの声には懐かしさが滲むが、すぐに影が差した。
「カズハは……もう死んじゃったんだけど。」
「そっか…………。」
レクトは気まずそうに目を伏せた。
そのまま秘密基地の奥へ進んだ。
「カズハとの思い出は、ここに全部あるから。ほら、ここの滑り台、めっちゃ楽しかったんだから!」
秘密基地には、
手作りのアトラクションがいくつも残されていた。木の板で作られた滑り台、ターザンロープのようなブランコ、小さなツリーハウス。どれも、子どもたちの夢と工夫が詰まっていた。
滑り台のそばで、ヴェルはふと立ち止まった。
彼女の視線は、滑り台の端に彫られた小さなハートのマークに注がれていた。
「これ、カズハが彫ったんだ。『ここが私たちの城だ!』って、笑いながら彫ってた。」
「カズハって、どんな子だったの?」
レクトがそっと尋ねた。
「すごく明るくて、いつもアイデアを出してた。
……12歳で魔法が出現してから、私のことを除け者扱いする町のみんなと違って、ちゃんと対等に見ててくれた。」
ヴェルの声は柔らかかったが、すぐに暗くなった。
「でも、病気で急にいなくなっちゃって……。母さんが、なんか関わってるって噂もあったんだよね。
カズハの家、母さんと揉めてた時期があったから。」
「え、ヴェル母さんが?」
レクトは驚いたようにヴェルを見た。
「うん……よく分からないけど。カズハの病気、急だったし、なんか変だったんだ。
母さんに聞いても、いつもはぐらかされて。」
ヴェルは唇を噛み、すぐに笑顔に戻った。
「まぁ、昔の話! ほら、色んな遊具あるんだよ!遊ぼ!」
「……よし、じゃあ試すか!」
レクトは滑り台に登り、勢いよく滑り降りた。「おお、なんか……スッキリするな、これ!」
「スッキリするよねー!?カズハが『滑り台は心のデトックス!』って言ってたんだ。」
ヴェルも滑り台に登り、隣で滑った。二人の笑い声が、秘密基地に響き合う。
次に、ターザンロープに挑戦した。
レクトがロープを握り、勢いよく飛び出すと、風を切る音とともに笑顔が広がった。
「ヴェル、これやばい! めっちゃ楽しい!」
「だよね!!
カズハと何回競争したか分からないよ!」
ヴェルもロープに飛び乗り、二人で交互に遊び続けた。
ツリーハウスでは、カズハとヴェルが彫った落書きを見つけ、懐かしそうに笑った。
そして木製のトランプで遊んだりもした。
レクトの笑顔は、戦いの疲れを忘れたように明るかった。
夕暮れ時、二人はキリサキ町を後にし、
列車で魔法学園へ向かっていた。
車内は静かで、窓の外には夕焼けが広がっていた。レクトは少し眠そうに目をこすりながら、ヴェルに話しかけた。
「ヴェル、今日、ほんと楽しかった。なんか、久しぶりに頭空っぽにできたよ。」
「でしょ? あの秘密基地、マジで最強だから!」
ヴェルは得意げに胸を張り、隣に座るレクトを見た。
「……ねぇ、レクト。ちょっと元気になった?」
「……え?」
「いや、本当はね?
今回あの町に連れていったのは、レクトを元気付けたかったからなんだ、、、。
家族の問題はきっと、難しいだろうから」
ヴェルは窓の外に目をやり、遠くを見つめた。
「……」
そのままヴェルは呟く。
「レクトはさ、
お母さんとか家族のこと、好きなんでしょ?
……私には理解できないの
お母さんも、他の家族も、
私にとってはすごく冷たいもので、
また仲良くしたいなんて、考えたことがないから……。
でもさ、
辛い気持ちなのは分かるの、
それは同じ……っ!
だからこうやって、ちょっとでも笑える時間、作っていこうよ。」
レクトは笑顔でヴェルを見た。
「ヴェル、……優しいな。」
「え、急に何! 照れるじゃん!」
ヴェルは笑い、レクトの肩を軽く叩いた。
「でもさ、ほんと、レクトの笑顔見るとホッとするんだよね。なんか、私も元気もらえるっていうか。」
「そっか……ありがとな、ヴェル。」
レクトの声は柔らかく、どこか温かかった。
「俺さ、
お母さんとのこととか、
過去のこととか、
考えると頭ぐちゃぐちゃになるけど……
ヴェルみたいな、友達がいてくれると、
なんか、
頑張れそうな気がするんだ……!」
「よかった!
だって、私、レクトの親友じゃん!」
ヴェルはニヤリと笑い、バッグからオレンジジュースを取り出した。
「ほら、さっきのブランコバトル、負けたからおごりね!」
「うわ、覚えてたの!?」
レクトは笑い、ジュースを受け取った。
「分かったよ、次は絶対勝つからな!」
「言ったね!次はもっと難しいアトラクションで勝負だぞい!!」
ヴェルは目を輝かせ、楽しそうに笑った。
「「次」…………。
でもさ、ヴェル。」
レクトの声が少し真剣になった。
「家族のこと、嫌いって言ってたけど……ほんとに大丈夫?
今日の母さんの感じ、……本当に笑えないくらい冷たかったよ?」
ヴェルは一瞬黙り、ジュースの缶を握りしめた。
「うん、まぁ……大丈夫ではないよ。
母さん、私のこと、ほんとどうでもいいんだと思う。
子どもの頃から、なんか、邪魔者扱いだったし。」
彼女は小さく笑い、すぐに明るく振る舞った。「でもさ、だからこそ、レクトの気持ち、ちょっと分かるんだ。家族のこと、本当に大変……。」
「うん……難しい。」レクトは頷き、
窓の外を見た。
「お母さんやお父さん、お姉ちゃんと和解したいって思うけど、ゼンのことがバレたら、全部終わりだし。怖いよ、ほんと。」
「……そうだよね、でもさ、レクト。」
ヴェルはレクトの目を見て、力強く言った。
「やっぱり怖くても、進むしかないじゃん。
私も、母さんのこと怖いけど、こうやって魔法学園で頑張ってる。
レクトも、絶対やれるよ。……いや、やれてる。
私、応援してるから。」
「ヴェル……ありがとう。」
レクトの目には、ほんの少し涙が浮かんでいた。
「ほんと、ヴェルがいてくれてよかったよ。」
「……私も!」
次話 6月21日更新!
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