「痛いよぉ、アカリー。助けてぇー」
休み時間に入ったものの、あの痛みは未だに残っている。私は机に突っ伏した状態で、そう友に助けを求めた。もし私がこれを言われた側であれば『だから何?』と心無い言葉で返してしまうだろう。それを理解できている私は勿論、これがダル絡みと呼ばれる行動である事を把握している。それでもこうする事ができるのは、彼女と私の間に信頼というものがあるからだろう。
「はいはい。なでなでーっ」
私の身体は彼女の座る左側へと抱き寄せられ、まるで犬にするように頭を撫でられた。普段であればそのまま身を預けて甘え、私は一人の幼子となるところだ。だが、今回ばかりはそれも出来ない。頭を撫でるという愛情に満ちた行為が、三角定規の痛みを再び濃くハッキリとしたものとして浮かべてくる。それでも、重要なのは痛みがあるかどうかではなかった。単に私には、これを一人で乗り切るだけの自信が無かったのだ。誰かが横にいるのだという事を実感できるのであれば、その過程などどうでもよかった。
水天アカリ、十六歳。私の一つ上の歳である。悪魔の侵攻を受ける前の世界では年齢ごとにクラスが分かれていたというが、今の私たちが習う内容は学年によって左右されるものでは無い。悪魔の対処法と神徒に覚醒するための修行。それと取り返すべき世界の姿についてを日々学習している。まあ、そもそもこの学校の全生徒数は私含め、四人しかいない。先生だってデカチチだけ。生き残りがこれで全員という訳では無いが、私は今まで一度もその者たちに出会えた事は無い。覚醒を果たした彼らは今もこの世界のどこかで、悪魔と闘っているのだろうか。
「ったく。何してんだよお前らは、毎度毎度」
そう言ったのは、アカリの更に左に座るリュウトだ。左手で頰を突き、随分と偉そうな態度でこちらを覗いてくる。そんな彼をアカリは不思議そうに見つめ、しばらくしてから言った。
「リュウト君もする? なでなで?」
「なっ……」
彼は急に飛び上がるように身を引き、机はズレて椅子は転がった。その重たい音で世界が変わってしまったかのか、突如場に静寂が訪れた。先刻まで頬を突きていた事による跡が一切わからないほど、彼の顔は真っ赤に染まっていた。
「あっ! もしかして、アカリに撫でてもらえると勘違いしちゃった?」
「違う!」
「でも残念ながら、リュウトが撫でるのは私の頭の方なんですわ」
「だから違う!」
「アカリじゃないんですわ」
「いや、話を聞け!」
アカリは異常なほどに照れる、いや彼女の目には嫌がっているように映っているのかもしれないがとにかく、リュウトの過度な反応を理解できず、私たちの煽り合いに挟まれて呆然としていた。おそらく彼女の中では自分が誰かに好きだと思われているだとか、そういう事は思いつきもしないのだろう。
「……もしかして、私の頭をなでなでしたかったの?」
その瞬間、またもや世界は変動する。天然、いやド天然のアカリは理由についての考察を放棄し、恋愛的最適解だけを出した。前言撤回、過程はこの世の何よりも重要かもしれない。リュウトのように彼女に対して恋愛感情を持っていない私でも、この言葉は威力が強すぎる。私の場所からでは彼女の背中しか見えないが、それでも彼が今目にしている光景が鮮明に浮かんでくる。こちらの目を真っすぐと見つめる上目遣いの瞳。柔らかく揺れる唇。鎖骨。こちらを覗く谷間。両腕に挟まれ強調された胸。腰のくびれ。
鎖骨、谷間、胸! 思わず息が溢れてしまう。ああ。我々が谷間を除く時、谷間もまたこちらを覗いているのだ。
「たまんねえぇ……」
「お前……、おっさん臭いな」
前髪を掻き上げて決めポーズをしている私に彼は冷静に言った。まあ、おっさん臭いというのもわからなくは無い。わからなくは無いが、こう直接的に言うのはどうかと思う。怒りを胸に抑えながらも、余裕を見せて答える。
「失礼だね。今日は腐った鯖缶臭のはずだよ」
「え、マジで臭いの?」
「まあ、臭いってほどじゃ無いかもだけど、ほんのりとSpicyな香りがするよ」
「いや、臭いんじゃねえか」
「サナちゃん。発音上手!」
アカリは天使のように微笑んでそう言う。その純粋さ眩しく、まるで太陽が目の前にいるようだ。
「嗅いでみるかい?」
私がそう言うとリュウトはゴクリと息を呑み込み、静かに頷いた。それは異性の髪の匂いを嗅げる喜びを抑えたというよりかは、死への恐怖を抑えたというか好奇心に負けたというか、そういう雰囲気があった。彼が私の髪を掬い上げる。鼓動が鳴り響く。自分で言い始めた事ではあるが私は緊張していた。ひどく緊張していた。匂いがどうかを気にしている訳でも、臭いと言われるかが怖い訳でも無い。異性が自分の髪に触れているのだという、この状況が予想していた以上に耐え難いものだったのだ。彼は髪に顔を徐々に近づけて……手で呷って匂いを嗅いだ。
「いや、アンモニアの嗅ぎ方!」
そうツッコミをすると共に、緊張の腹いせに髪をリュウトに向けて舞わせた。きっと彼の顔の周りには今、私の髪の中に溜められていた幾つもの香りが充満しているはずだ。その証拠に彼の表情はピーマンを食べた後の子供のような、苦さを堪えているようなものになっており、その薄く開いた瞳からは涙が溢れている。腹いせにしては少しやり過ぎた気もして罪悪感が込み上げそうになるも、アカリがとても嬉しそうに笑っていて、それだけで私は彼は必要な犠牲だったのだと納得できた。
「私、リュウトの事、忘れないから……」
「死んでねえから!」
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