天まで伸びる鬱蒼とした杉の木立、その朽ちかけた看板には坪野キャンプ場と書かれていた。以前は賑わったのであろうその場所は、長年利用されていないらしく寂れて当然|人気《ひとけ》もなければ木製の電柱は倒れ電気や水道が通って居る気配もない。
凍てつく寒さ。
足元から凍りつく智の穴だらけのタイツの踵は真っ赤で皮がベロリと剥けかけている。歯の根元がケタケタと笑いガクガクとその音が頭蓋骨に響く。
「さ、寒い、裕人、寒い」
「分かってるよ!」
2人は朱音から身を隠そうとその闇夜の片隅に佇む二階建てのロッジの階段をミシミシと上った。
「ちっ、当たり前か!」
「ど、どうするの、開かないじゃん!」
当然のように出入り口のドアは中から施錠され、ドアノブは中途半端な場所でカチャリと止まり2人を絶望させた。西村は何度か肩でドアに体当たりしてみたが、ただ痛いだけでなんの解決にもならなかった。
「智、お前も押せ!」
「う、うん!」
今度は2人で力の限り両手で押してみたが、ドアはギギと軋むだけで開くことは無かった。
濡れた落ち葉に足を取られながらロッジの周辺をぐるぐると狛鼠のように回ってみたがその他に出入り口は見つからない。
玄関ドアの脇には、十字に組まれた木枠のガラス窓。長年の埃で中を良く見る事は出来なかったが、テーブルや椅子、食器棚の影がうっすらと見て取れた。西村が制服のジャケットの袖で窓の汚れを拭い、目を凝らしたが手の届く場所に鍵らしき物は無い。
「どうしよう、もう来る、あの子が来る、来る、来る、来る」
「それ、貸せ!」
「う、うん」
「離れてろ!」
涙声の智の腕を引き寄せ、厚手の黒いブルゾンを脱がせると西村はそれを腕に巻き付けて思い切り窓ガラスを叩き割った。十字の窓枠を残してガラスが粉々に砕け散ると西村の頬に破片が飛び、スッと傷が付き血が滲む。
「くそっ!外れろ!外れろ!外れろ!」
窓の縁には細かなガラスの破片が残っていたが、西村はそんな事などお構いなしに木枠を両手で握るとガタガタと揺らしそれを外そうと試みた。全ての指の第二関節に真っ赤な血が滲んだが寒さで悴んでいるのだろう、痛みも感じなければ思う様に力を入れる事も出来ない。
「くそ!」
泥だらけの右足の革靴を脱ぐと大きく振りかぶって十字の真ん中に、何度も何度も叩き付けた。
「裕人、早く!来ちゃう!来ちゃう!」
「うるせぇ、分かってるよ!」
背後にヒタヒタと朱音の赤い靴の音が聞こえる様な気がして振り向いたがその姿は見えない。その時ガタンと音がして蝶番が外れ、ボロりと木枠が床に落ちた。
「早く、入れ!」
「う、うん。」
智が窓に手を掛け外壁をよじ登ろうとするが黒いタイツが滑り脚が思う様に進まない。西村がその背中を両手で押したが、今度は智のふくよかな臀部が邪魔をして窓枠を越えられない。
「食いすぎなんだよ!」
そう罵倒した西村は右足の靴底で智の臀部を蹴って屋内に押し込め、自身も窓に掴まり中に飛び込んだ。床には割れたガラスが散乱し、その中に智が呻き声を漏らし突っ伏している。
「す、すまん。痛かったか」
「い、痛いよ!」
「す、すまん」
智はガラスの破片が手のひらに刺さった痛みに顔を顰めながら悔しさと惨めさの涙を流し、立ち尽くす西村を睨みつけた。
「裕人!不倫してたの!」
「それ・・・・それは、今は良いだろ!」
「信じらんない!」
「黙れよ!」
西村のこれまでの愚行を知った智が憎しみに満ちた目で声を荒げたが、太々しい態度を崩さない西村は事もあろうか居直った。
「今、そんな事言ってる場合かよ!」
「あの子、未成年でしょ、何してんの!?」
「ウルセェ!」
「子どもまで作って!」
「知らねぇよ!」
「馬鹿じゃないの!」
そう怒鳴り声を上げた瞬間、智の目は西村の背後に釘付けになり顔から血の気が引くのを感じた。口元がガクガクと震え、ブルブルと指を差す。
「ひ、裕人。後ろ、うし、ろ」
人の息遣いを感じた西村が振り向くと、そこには桜色の髪の毛を振り乱した碧眼のふたつの目が窓の外から覗き恨めしい声で口を開いた。
「西村さん、何で朱音を置いて行ったの?」
「あ、あか、朱音」
「助けてくれるって言ったじゃない」
美しい桜色の指が窓に掛けられ、ゆっくりと上ろうとする。
「いやぁぁぁぁぁ!」
智の悲鳴。西村は思い切り朱音の顔面を革靴の底で蹴り付けた。
「ぐ、グフっ。」
ゴン、ドンドンと鈍い音がして、倒れ込む音。窓から覗くと朱音は階段を2つ程ずり落ち、仰向けに倒れてぴくりとも動かない。捲れ上がった赤いワンピースから青白い脚が顕になり、左の太腿のピックは抜かれて血が流れている。
(し、死んだのか!?正当防衛だ、大丈夫、正当防衛だ!)
目を左に遣ると窓の3分の2程を隠せる程の棚が有った。足を踏ん張って引こうとするがギシと軋むだけだった。
「智!手伝え!動かすぞ!早く!」
「う、うん」
「引っ張るぞ!」
「は、はい!」
「押せ!」
食器棚の開戸を開けてその部分に指を差し込む。棚を横にずらす度にその扉はキイキイと音を立て指を挟んだがそれも構わずに力の限り引っ張った。歯を食いしばる、腰が痛む、汗が滲む、程なくして食器棚は窓のその殆どを隠し、ロッジの部屋の中は暗闇に包まれた。
「ひ、裕人。もう来ない?あの子、どうなったの?」
「・・・・・静かにしてろ」
西村は思い付いたようにジャケットの胸ポケットをパタパタと押さえ《《個人用携帯》》を取り出して開いた。
電波は届いている。電話帳を上から下にスライドさせ、その人の電話番号を探し出す。
(どれだ、どれだ、どれだ!)
指が震える、どれだ、どれだと視点が定まらない、数字が踊る、文字が頭に入らない。
(これだ、あった、これだ!)
西村の指先は任意事情聴取の際、久我隼人警視正から教えられた携帯電話番号に辿りつくと、震えながらその発信ボタンを押した。
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