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「雄大さんの子供を妊娠したって……」
「……はあ?」
「春日野さんが、そう言ったの」
「それを……信じたのか?」
玲の言葉の真相はさておき、馨がそれを聞いてどう思ったかの方が気になった。
あの無表情は、俺への軽蔑の表れか……?
「そうだとしたら?」
「さすがに、怒るな」
「そこまで……バカじゃない」と言って、馨が俺の肩にもたれかかった。
「馬鹿なのはあの女よ」
「妊娠なんて、お前を動揺させる嘘だろう」
「本当にそう思う?」
「え?」
「すぐにバレる嘘、つくと思う?」
「だけど——」
嘘じゃないなら————。
「私の前で検査してもいいって、言ってた」
「意味が……わかんねぇんだけど」
「うん。私もわかんなかった」
混乱した。
玲が妊娠したのなら、もう俺に固執する理由はない。相手の男と結婚すればいい。
そもそも、俺の子供って————。
おぞましい考えが浮かんだ。
いくらプライドの高い玲でも、まさかそんなことをするはずがない。
俺の知っている玲は、そんなに馬鹿な女じゃない。
だけど……。
『欲しいものの為ならどんなことでもするわ』
玲は、そう言った。
「まさか……」
「あの写真と、妊娠の事実があれば、誰もが子供の父親は雄大さんだと思うよね」
ホテル内で撮られた二人の写真が頭に浮かぶ。ご丁寧に日付も入っていた。
最初から『これ』が目的だったのか——!
信じられなかった。
信じたくなかった。
けれど、それが事実なのだろう。
「そうまでして——」
馨が顔を上げた。それまで彼女の息で温かかった首筋が、寒くなる。
「雄大さん。私、春日野さんが許せない」
「馨……」
「事情はどうであれ、命を利用するなんて、許せない」
「……そうだな」
馨は俺を責めない。
普通の恋人なら、写真を撮られるようなヘマをしたことを、それ以前に元カノとホテルで会ったことを責め立てられているはずだ。
けれど、馨は怒らず、責めず、その矛先を玲に向けた。
それが、普通の恋人との違いを決定づけているようで、寂しいと思う。
普通の恋人なら、とっくに三下り半を突きつけられているか……。
「ごめんな」
馨のうなじに手を回し、抱き寄せると、ベッドから俺の膝にストンと落ちてきた。背中に馨の掌の感触。それが、鋭い痛みに変わる。
「三度目はないから」と言いながら、馨が俺の背中をつねった。
本気で、痛い。
「ごめん」
耳たぶを甘噛みすると、馨の手がつねられた部分優しくさすってくれた。
「もう、会わないでほしいけど、そういうわけにはいかないよね?」
「……そう……だな」
玲はきっと、妊娠したことを両親に告げる。その数分後には俺の両親の耳にも入るはずだ。更にその翌日には、結納の日取りが決められることだろう。
俺がいくら違うと言っても、あの写真を見られたらお終いだ。誰が撮ったかなんて問題視されず、俺が子供の父親であることの証拠にされる。
仮にDNA検査を申し出ても、許されるはずもない。一人娘を嘘つき呼ばわりされて、受け入れる親はいないだろう。
どうする……?
「春日野さん、子供を産むと思う?」
馨が言った。
「どうかな。生まれたら、父親が俺じゃないことがはっきりするからな」
「流産なんてしたら……子供の父親が誰かはわからないままだね」
流産——。
まさか、それが狙いだなんて思いたくないが、こうなった以上、玲が何をしても不思議じゃない気がする。
「俺が自分の子供ではないと春日野を拒絶し、ショックで流産でもしたら、俺はその責任を取る形でなし崩し的に結婚、か」
「雄大さん……」
馨の髪が顎をくすぐり、心地良い。
「春日野さんのしていることは許せないけど、彼女を苦しめたいとか傷つけたいとかは思わない」
「わかってるよ」と言って、馨の髪に指を絡める。
「……黛が……春日野さんを妊娠させた張本人だとしたら——」
考えないようにしていた、恐らくそうであろう可能性を、馨が口にした。
そうでなければいいと、思いたかった。
そんな風に思う俺は、やっぱり甘いのかもしれない。
「春日野さんが危険かもしれない」
「危険?」
「うん」
馨は俺の膝から立ち上がると、寝室を出て行った。一分ほどで戻ってきた時、手には茶封筒があった。
封筒を差し出され、俺は受け取った。ベッドに並んで座り、封筒から中身を取り出した。薄いファイルが二冊、入っていた。
一冊は素行調査報告書。もう一冊は身辺調査報告書。
ページをめくると、明朝体で印刷された『黛賢也氏の素行調査結果』という言葉が目に入った。日付は一年ほど前。
「高校卒業を控えた桜から黛と結婚したいと言われて、調査したの」
ざっと目を通しただけで、黛がいかに最低な人間かがわかる。学生の頃から女性関係にはだらしなく、付き合いのあった友人の中には、覚せい剤の売人として逮捕されている人間もいた。黛自身にも覚せい剤所持と使用の疑いがあった。
「これを見せれば、妹も目が覚めたんじゃないのか?」
「そうかもしれない。けど、過去を知られた黛が逆上するのを恐れて、私は桜を留学させたの」
ある意味、賢明な判断だ。
この報告書が明るみに出たとしても、黛が逮捕されるわけでもない。恨みを買って報復に怯えるよりも、物理的な距離を取った方が安全だ。
「今は社会的な立場もあるし、そこまで無謀じゃないと思いたいけど、怖くて……」
「平内も知ってるのか?」
馨は俯いて首を振った。
「覚せい剤云々のことは言ってない。女にだらしなくて、ガラの悪い連中と付き合いがあるみたいだ、としか」
「過剰反応しそうだからな」
「うん」と、頷く。
「馨は、黛が春日野を流産させるために覚せい剤を使うと思ってるのか?」
「わからないけど……。可能性がないとも思えないし、もう使われてるかもしれない」
「もう……?」
「……」
口を閉ざした馨は、膝の上で握りしめた拳を震わせていた。彼女の手を開くと、掌に爪の痕が赤く残っていた。
痕をさすりながら、馨の顔を覗き込む。
「使われたことがあるのか」
「……」
「黛に何かされたのか」
「…………」
「馨!」
「私じゃ……な……」
かろうじて聞こえる声。
「妹か!?」
馨が頷く。
「レイプされたのか」
「わからない」
「わからない?」
「桜から黛との関係を聞いて、私は反対したわ。何度も桜を説得した。二人が会えないようにもした。そうしたら、黛から写真を見せられたの」
聞かなくても想像がつく。
「半裸の桜の写真。制服姿だった。意識もないようだった」
「薬を飲まされた?」
「そう思って桜を問い詰めたら、何も飲まされてないって。……合意の上でセックスしたって——」
その時の馨のショックはどれほどだったろう。
俺が、高校生だった姉さんのキス現場に遭遇した時のショックなんて、比じゃないだろう。
「黛を庇ったのか」
再び、馨が頷いた。
「その写真で、脅された?」
もう一度、頷く。
「そういうことか……」と、ため息をつく。
「けど、いくら惚れてるからって、薬飲まされて処女奪われて、桜はよく——」
「処女じゃ……なかったの」
「は?」
「黛も、男慣れしてない桜を言いなりするのは簡単だと思ってたみたい。だけど……」
気がつくと、馨がまた手を握りしめていた。
俺は馨の手を開き、掌に口づけた。
「処女じゃなかったからって、脅しのネタにはなんねーだろ」
「規律の厳しい学校だったから……」
それだけではない気がした。
馨はまだ、秘密を抱えている。
俺にも平内にも言えない秘密。
元彼だけが知っている、秘密。
「そうか」
それでも、いい。
少しずつ打ち明けてくれたら、いい。
「馨は、春日野が薬を盛られて黛にレイプされたと思ってるのか?」
「可能性はある、と思う」
確かに、その可能性はある。
こうなっては、そうであってほしいとすら思う。
玲が、俺を手に入れる為だけに、黛に足を開いたとは思いたくなかった。
俺の知っている玲は、そんな女じゃない。
けれど、もう、そんなことを言っている状況じゃない。
昔の女への感傷に浸って、今の女を失うわけにはいかない——。
「もう一度、玲に会って来る」
「……」
馨は何も言わず、俺の肩にもたれかかった。
「お前は、ただ、俺を信じてろ」
馨が小さく、けれど、力強く、頷いた。