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「これも、証拠写真の為か?」
ホテルのドアを開けるなり、抱きついてきた玲に、俺は言った。
「まさか、お前がここまで馬鹿な女だったとはな」
「随分な言葉ね。会いたいと言ってきたのは雄大じゃない」
「会って話をする必要がある、と言ったんだ」
俺は玲の身体を押し退け、部屋に入った。
「同じことじゃない」と言って、玲が口元に挑発的な笑みを浮かべた。
その笑みは、俺の知っている女のものとは違った。
かつて、何度も重ねた唇も、ベッドで絡ませた指も、脚も、なんの魅力も感じない。
今、目の前にいる女は、俺が欲情した女とは、別人。
「コーヒー、飲む?」
「必要ない」と言って、俺はソファに腰を下ろした。
「私に遠慮しないで?」
「してない」
「なら、ワインは?」
「何も飲まない。何が入ってるか、わからないからな」
玲はムッとして、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本、取り出した。
「そういうの、やめてくれない? 胎教に悪いから」
「誰の子だ」
「あなたの子よ」
何の感情も見えない、台詞のような回答。
「笑えない冗談だな」
「それは私の台詞よ。責任逃れなんて、酷いパパね」と言って、これ見よがしに腹をさする。
「反吐が出る演技だな」
「彼女に言われて来たの? 子供を産まないように説得して来いって?」
玲は俺と向かい合って座ると、脚を組み、ミネラルウォーターを口に含んだ。
その姿は、とても妊娠しているように見えない。悪阻は個人差があるというし、癖や習慣はそう変えられるものではないだろう。
付き合っていた頃、よく玲は素足で足を組み、俺を誘った。俺は、俺を求める玲を焦らして優越感に浸っていた。
今、馨に同じことをされたら、犬みたいに尻尾を振って飛びつくな……。
こんな状況でも、そんなことを考えてしまう自分に呆れる。
俺は煩悩を祓って、目の前の玲《敵》と向き合った。
玲《このステージ》を攻略できなきゃ、馨の足《褒美》に飛びつけない。
「馨はそんなことを言う女じゃない」
「じゃあ、あなたを譲る気になった?」
「それこそ、あり得ないな」
「でしょうね。絶対に渡さない、って息巻いてたもの」
馨が……?
嬉しかった。
馨の嫉妬や独占欲が、心底嬉しい。
『愛している』と言われているようで、心地良い。
「あなたでもそんな顔、するのね」
玲に言われて、顔の筋肉に力を込める。馨のことになると、どうも締まりが悪い。
姉さんにも『気持ち悪い』と言われたことがある。
突き刺すような鋭い視線で、玲が俺を見た。
「で?」
「産むつもりか」
「もちろん。あなたの子供ですもの」
「そうか」
「え?」と、玲が驚いた顔で俺を見た。
産むな、と言われると思っていたのだろう。
「産むんだろ?」
「え……ええ」
「わかった」
玲の驚きが、徐々に疑いに変わっていくのがわかった。
「……どういう意味?」
「どうって?」
俺の言葉を素直に受け取れず、真意を探っている。
「産んでいいってこと?」
「ああ。元気な子を産んでくれ」
俺たちの視線が、火花を散らして交わっていることに気がつくのは、俺たち自身。
「あなたの子だと、認めてくれるのね?」
「まさか」
「だったら——」
「生まれた子供が俺の子供だと証明出来たら、認知してやるよ」
これまで、自分の性格が悪いと思ったことはなかったが、今は思う。
玲の顔に焦りが見え、いい気味だと思った。
こんなことをされても、玲の身を案じる馨の心情を思えば、こんな仕返しは何の慰めにもならない。
馨自身が何と言おうと、俺が許せない。
「出産まで結婚を引き延ばすなんて、あなたのご両親も私の両親も許さないわよ」
「結婚するなんて誰が言った? 俺は『認知してやる』と言ったんだ」
玲の歯ぎしりが聞こえてくようだ。
「私が産んだ子供を認知して、あの女と結婚できると思ってるの?」
「悪あがきはやめろよ。腹の子の父親が俺じゃないことは、俺とお前が一番よくわかっていることだ。それなのに、こんな茶番に時間を割くなんて無意味だ」
本当に、歯ぎしりが聞こえた。
真っ赤な唇にひびが見えるほどきつく歯を噛む玲は、今にも俺に噛みついてきそうだ。
「あなたの……子供を妊娠したと、あなたのご両親に伝えるわ」
「好きにしろ」
「誰もが思うわ。子供の父親はあなただって!」
「それが? 誰に何と言われようと、俺は他人の子を認知はしない。それに、その事実は馨がわかっていてくれれば、それでいい」
避ける間もなく、ペットボトルが飛んできた。肩に命中し、スーツが少し濡れた。足元に落ちたペットボトルからこぼれる水が、絨毯に滲み込んでいく。
「どうしてあの女なのよ!」
ヒステリックな金切り声が部屋に響く。
「胎教に悪いから興奮するなよ」
「どうだっていいわ!」
「酷いママだな」と、俺は玲の腹に向かって話しかけた。
「パパが誰であれ、お前のママなのにな」
「ふざけないで!!」
「ふざけてるのはお前だろう!? 子供をなんだと思ってる!」
興奮のあまり、玲が立ち上がる。
「こんなふざけたことをさせたのは誰よ!!?」
「いい加減にしろ! 大体、こんなことをして何になる? 自分を愛していない俺《男》と結婚しても、幸せになんかなれないだろう」
「幸せになんかなれなくてもいい! 結婚してよ!!」
玲が、ここまで話の通じない女だとは思わなかった。
相手が女じゃなければ、間違いなく殴っていた。それほど、苛立っていた。
気を静めるために、大きく深呼吸する。
「わかった」
「え?」
「……お前と結婚する」
「え————」
余程、驚いたらしく、玲がストンとソファに座り込む。
「その代わり、子供の父親が誰か教えろ」
玲の唇がきつく結ばれる。
「どこのどいつかも分からない男の子供を育てるなんて、冗談じゃない」
「知る必要……ないわ」と、玲は呟いた。
「産まないもの」
「最初から、産まないつもりで妊娠したのか」
「そうよ……。あなたの子だと……みんなに信じさせられたら、それで良かった。なのに——」
「一番騙したかった馨が、騙されなかった」
「あんな写真を見せられてもあなたを信じるなんて、あの女こそ馬鹿よ」
そうかもしれない。
俺が馨の立場なら、あんな風に信じられない。
だからこそ、馨が俺を信じてくれて嬉しかった。
「相手の男は知ってるのか? 子供のことを」
「雄大にはどうでもいいことでしょ」
「まさか、相手がわからないなんてことはないだろう?」
「……」
玲が視線を逸らす。
俺と馨は、相手が黛だと考えていた。だから、玲が薬を盛られたのではないかとまで、心配になった。
「黛じゃないのか」
「そうかもね」と言って、髪をかき上げ、また足を組む。
「かもねって……。玲、妊娠はお前の意思か?」
「どういう意味よ」
「レイプ……されたとか——」
ははっ、と玲が鼻で笑う。
「そういうことにしてあなたに泣きついた方が、効果的だったかしらね」
「玲!」
「黛は、父親かもしれない男の一人ってだけよ」
それ以上、聞きたくなかった。
俺を陥れる為だけに、複数の男に身体を好きにさせるなんて、嫌悪しか感じない。
「ねぇ、雄大」
「なんだ」
「結婚、してよ」
「玲」
「あの女を愛人にしてもいいから」
「話にならないな」
俺は立ちあがり、濡れたスーツの襟を正した。
「玲、これが最後だ。いい娘でありたいのなら、妊娠がバレる前に俺を諦めろ」
「嫌だと……言ったら?」
「盗撮やメールの一斉送信が出来るのは、黛だけじゃない」
「……」
玲は俺の言いたいことを理解したようだった。絶望を隠そうと、深く息を吸う。
「親には俺を嫌いになったと言えばいい。変態的なプレイを強要されたとでも言えば、親も納得するだろ」
玲がふっと笑う。
「どんなプレイよ」
「それは任せるよ」
「してよ」
背後から伸びてきた細い腕が、俺の腹に巻き付く。
「最後に、抱いて」
縋るようなか細い声。
玲ほどの女に乞われたら、ほとんどの男は二つ返事に振り向くだろう。
けれど、俺の身体は全く反応しなかった。
それどころか、帰って馨に玲の移り香に気付かれたらと考えると、怖くなる。
「無理だ」
「誰にも言わないから。本当に、最後に——」
「違う。不可能なんだよ」
俺は玲の手を解き、振り向いた。
「馨以外に勃たないから」
「は——?」
「悪いな」
涙目で呆けた顔をしている玲を尻目に、俺は部屋を出た。と、同時に、スーツのポケットで聞き耳を立てていたスマホを停止させた。
これを使わずに済むことを、願った。