テラーノベル
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第1部 買収
第3章 提携のご相談
翌週の水曜、午後五時。パリは、朝の十時だった。
会議室のモニターに、パリのバイヤーの顔が映っている。背後の窓から、薄い朝の光が入っていた。舜太は椅子に浅く座り、ノートPCの数字を一度だけ確認して、英語に切り替えた。
「Thank you for making time. I know it’s early for you.(お時間をいただきありがとうございます。早朝から恐れ入ります)」
「Not at all. We’ve been looking forward to this.(とんでもないです、ずっと楽しみにしておりました)」
前回の発注は、お試しの少量注文だった。店頭で売れ行きを見て、次に本格的に仕入れるかどうかを決める。バイヤーの仕事は、そういう賭けの連続だ。その賭けの答えが、今日、出る。
「The first collection sold out in nine days. We’d like to double the order.(第1弾のコレクションは9日間で完売いたしました。そのため、次回は発注量を2倍に増やしたいと考えております。)」
倍。舜太は表情を変えずに頷いた。隣で仁人が、机の下でメモの端を指で叩くのが、視界の端に見えた。仁人が本当に嬉しいときの癖だった。
「That’s wonderful to hear. Let’s go through the delivery schedule.(それは何よりです。それでは、納期を確認しましょう。)」
納期、数量、支払い条件。会話は短く、速く進んだ。数字を一つ確認するたび、バイヤーが頷く。三十分で、条件はまとまった。
「One more thing.」
画面の向こうで、バイヤーが少し身を乗り出した。
「Next time I’m in Tokyo, I’d love to meet the designer in person. Would that be possible?(次回東京に行く際、デザイナーの方に直接お会いしたいと考えているのですが、可能でしょうか?)」
舜太は、笑顔のまま、間を置かなかった。
「I appreciate that. But he focuses entirely on creation. To keep the work consistent, I’d like to keep all communication with buyers through me.(感謝します。ただ、彼は制作に集中しております。業務の整合性を保つため、すべてのやり取りは私に一元化させたいと考えています。)」
「I see. That’s understandable.」
「Thank you for understanding.」
通話は穏やかに終わった。画面が暗くなり、会議室の空気が、ふっと緩む。
「倍だぞ、舜太」
仁人が言った。声に、抑えきれない色が混じっている。
「倍やな。ええ商談やった」
「窓口の一本化、あそこまで言い切る必要があったか。聞かれた瞬間に答えてたぞ」
「制作に集中してもらうためやん。理由はそれで十分やろ」
「理由としては、通る」
仁人はそれ以上言わず、メモを閉じた。舜太も、それ以上は言わなかった。
夜八時を過ぎると、オフィスの人影は一気に減った。
二フロアの小さなビルだった。三十人に満たない社員の半分が帰り、残りの半分は、アトリエの奥で作業を続けている。舜太のデスクは、フロアの端、社員の背中が見渡せる場所にあった。広報担当が「お先に失礼します」と会釈して帰っていく。
売上の管理画面を眺めるのが、朝と夜の習慣だった。IT系のメガベンチャーで、新規事業の立ち上げに関わっていた頃に染みついた癖だ。売上、来訪者数、再購入率。数字は、感情を挟まず、事実だけを言う。今日の数字は良かった。
そのとき、メールが一通、届いた。
差出人は、投資銀行のM&Aアドバイザー。名前は勇斗、とだけあった。件名は「【ご相談】資本・業務提携について」。
本文は、丁寧で、簡潔だった。老舗ラグジュアリーグループ、ヴェルディエ・グループが、Lueurの成長に強い関心を持っていること。資本・業務提携の可能性について、一度、意見交換の場をいただきたいこと。
舜太は、三十秒で頭の中を整理した。
誰が。老舗のグループ。何を。資本と業務の提携。なぜ今。創業三年目でブランドが急成長したから。いくらで。書かれていない。
そして、言葉の選び方。
提携と買収は、似ているようで違う。提携は、会社を別々のまま手を組むこと。買収は、相手の株を買って、経営権を握ること。だが「資本」の二文字が入った時点で、入口は後者に通じている。断られにくい言葉で扉を開け、扉の奥で条件を詰める。前職の新規事業で何度も見た手順だった。
スクロールする指が、途中で止まった。
> 貴社のデザイン責任者の才能を、弊社クライアントは高く評価しております。
その一行だけ、舜太は読み飛ばさなかった。
マウスから手を離し、椅子の背に体重を預ける。天井の照明が、少し眩しかった。
しばらくして、彼はメッセンジャーに打った。
『会議室、五分。仁ちゃんと柔、二人とも』
夜九時の会議室。窓の外の街は、ビルの明かりで白んでいた。
舜太はメールを壁のモニターに映した。アトリエから来た柔太朗の指先には、まだ磨き粉の跡が残っている。
「ヴェルディエから、提携の相談。窓口は投資銀行や」
仁人は立ったまま、画面を読んだ。
読み終わるのが、遅かった。
いつもの仁人は、資料を一瞥して要点を言う。銀行員時代に身につけた、速読と要約の癖だ。その仁人が、送り主の欄で、視線を止めた。一拍。半拍かもしれない。それから、何事もなかったように顔を上げた。
「……ヴェルディエか」
「知ってるん?」
「名前くらいはな。老舗のグループだ」
「提携って、何するの?」
柔太朗が聞いた。
「会社を組む話。どこまで組むかは、まだ書いてへん」
舜太は答えて、モニターの一行を指した。
「気になるんは、ここ。デザイナー個人を名指しで褒めとる。うちの弱いところを、最初に突いてきとる」
「弱いところ?」
「うちは、柔一人に寄りかかっとる会社や。そこを先に押さえに来るんは、交渉の定石やねん」
声は静かだった。
「会う必要はない。断ればいい」
仁人が言った。短く、硬い声だった。
「断るにしても、相手の狙いと、うちの値段の相場は知っといて損ない」
「値段?」と、柔太朗。
「会社の値段や。企業価値って言うんやけど、会社にいくらの値がつくか。向こうがつける数字が分かれば、次に資金を集めるときの交渉材料にもなる」
「会社に、値段なんてあるんだ」
柔太朗は、少し意外そうに言った。
仁人は黙っていた。ほんの数秒だった。それから、机の上の書類に視線を落とした。
「……なら、初回は俺が出る。NDAが先だ」
「NDAって、何」
「秘密保持契約書」仁人が答えた。「話を進める前に、お互いの内部の情報を外に漏らさない、と約束する契約だ。これを結ぶまでは、うちの数字も、柔の新作の話も、向こうには何も出さない」
「へぇ。お互いに、秘密を守るんだ」
「そう」
仁人の手が、机の上の書類の端を揃え直した。最初から揃っていたものを。
舜太はそれを見て、疲れているのだろう、と思った。ここ数週間、仁人は特集の対応と商談で、ほとんど休んでいない。
「任せるわ、仁ちゃん」
「ああ」
仁人は「雛形を探す」と言って、先に会議室を出た。
残ったのは、舜太と柔太朗の二人だけだった。
柔太朗は、テーブルの端に浅く腰かけていた。右手の中指で、細い銀の指輪が、天井の照明を小さく返している。
「僕の名前、出てたんでしょ」
「……出てたな」
「隠さなくていいよ。読んだから」
舜太は、モニターを消した。黒い画面に、二人の影が映る。
「売らへんよ」
即答だった。言ってから、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。
「……いや、まだ話を聞くだけや。聞くだけ」
「うん」
「柔は、いつも通り作っとって。余計なこと考えんでええから」
「まぁ、確かに。考えても、分かんないし」
柔太朗はそこで言葉を切って、舜太を見た。涼しい目元が、じっと動かない。
「舜、顔、疲れてるよ」
「そうか?」
「そう。……先に帰るね。舜も、早く帰りなよ」
柔太朗が出ていくと、会議室に、空調の音だけが残った。
深夜、自宅。舜太は着替えもせず、ソファでノートPCを開いた。
メールを開く。閉じる。冷蔵庫から水を出して、飲む。喉は潤ったはずなのに、渇きは残っていた。理由は分からなかった。
もう一度、メールを開く。
三度目に開いたとき、彼は、上から読むのをやめていた。柔太朗の才能を評価する、その一行だけを、何度も見ていた。返信の欄は、空白のままだった。
𝕣𝕖𝕒𝕣
395
#ご本人様には関係ありません
あか
261
#からぴち
琉愛˚𓆩✞𓆪˙
191
コメント
1件
読み終わりました。商談が無事に決まった安堵から一転、資本提携の打診——しかも「デザイナー個人」を名指しで褒めてくるメールの一文、舜太がそこだけ何度も読み返すシーンが静かに効いてますね。仁人が書類の端を揃え直す小さな動作にも、何か引っかかるものを感じました。「売らへんよ」と言い切った舜太の言葉が、この先どう揺れるのか。次の話が気になります。