「あ、おーい! 縁~!」
少し長引いた講義を終えて小走りで図書館に行けば、もうすでに縁が入口で待っていた。きょろきょろと辺りを見回していた縁は、俺たちに気付くと、ぱっと表情を明るくして満々の笑みになる。
「洸ちゃーん、璃空ー!」
「待たせて悪い!」
二人して駆け寄ると、ニコニコと笑ってくれる。縁を見ると、こめかみから汗が落ちていくのが目に入った。ずいぶん待たせてしまったらしい。
「中で待ってて良かったのに。暑かったろ」
「ううん。そんなに待ってないし大丈夫だよ」
俺が聞いても、縁は首を横に振った。本当に良い奴過ぎて、いろいろと心配になる。多分弟がいたらこんな感じなんだろうな、と縁を見ていると良く思うのは本人には内緒だ。
とりあえず中に入ろう、と声を掛けて冷房の効いた図書館へ入った。
高校の図書室とは比べ物にならないくらい、大学の図書館はデカいし山ほど本がある。入館証を入口ゲートにかざさないと入れないから、セキュリティも割としっかりしている。この大学の生徒は、学生証が入館証の代わりに使えるので、本当に何度も使わせてもらっている。
特にお気に入りなのが、飲食・私語OKの自習スペースだ。併設されたコンビニを活用して、時間を潰すにはもってこいの場所だった。それとは別に私語厳禁の場所もあるから、集中したい人はそっちを使うこともできる。
今日の俺たちが使うのは、もちろん私語OKの自習スペースだ。
「縁は何のレポート?」
「社会心理学のレポートだよ。SNSの言動から読み解く人の心理について、みたいなやつ。実例を挙げながらやらなきゃなんだ」
「うげぇ、大変そうだな」
「でも意外と楽しいし、洸ちゃんより大変じゃないと思う。あと7個もあるんでしょ?」
縁の言葉に、バッと璃空を見れば肩を竦められた。チクったなこの野郎。
「まあ俺は璃空が手伝ってくれるから」
「え!? 大丈夫なのそれ」
「手伝ってもらうっつっても、めぼしい論文とか文献をピックアップしてコピペしてもらう作業のとこだよ。それを踏まえての見解とか自分の意見とかは、さすがに俺が書かないとな」
「洸ちゃんのそういう誤魔化さないって決めてるところ、好きだなぁ。ね、璃空?」
「うん、そうだな」
「なんだよ二人して。おだてても何もでねーよ?」
仕方ないから後で缶コーヒーおごってやる、と言えば二人とも喜んでくれる。全くこいつらは本当に俺をおだてるのが上手い。
グループ用の四人掛けの机を陣取る。
俺は璃空に自分のフラッシュメモリーを渡してから、手書き必須のレポートに取り掛かり、璃空と縁はノートパソコンと向き合う。いざレポートを始めると、俺たちはほとんど話さなくなった。
「洸、ちょっといいか?」
ふと横に座っていた璃空に、指でちょんちょんと手首をつつかれる。
「待って、……ん、なに?」
とりあえず返事をしながらキリの良い所まで書いてから、顔を上げた。璃空が指をさしている文言を目で追う。
「この文献、調べたら最新版出てるっぽくて、ちょっと文言変わってるみたいなんだけど、どうする? 新しい方引用する?」
「あー、あの教授って新旧にこだわる人だっけ」
「情報は新しい方を優先させるのが望ましい、って講義で確か言ってた」
璃空の言葉を聞きながら、講義の内容を思い出してみる。確かに、眼鏡をくいっと少し上げながらそんなことを言ってた記憶が蘇る。ここはいついつに改訂があってどうのこうの、という話もよくしていた気がする。
「確かに言ってたな~。じゃあ差し替えてもらっていい?」
「りょーかい。他のもありそうだったら差し替えとく」
「まじ助かる。さんきゅ」
パソコンの画面から璃空へと目を移す。あれ、と思う。璃空が見慣れない眼鏡をしていた。金の線の細い丸眼鏡だ。俺がつけたら絶対にダサく見えるだろうが、璃空だととても洒落て見える。
「え、お前、眼鏡してたっけ?」
思わず声に出した俺に、嗚呼、と気付いたように声を上げた璃空は、眼鏡に手を添えてふふん、と笑った。
「ブルーライトカット用のやつ買ったんだ。洸が見るの初めてだっけ?」
「初めてだな。驚いたわ」
「どう? 似合う?」
「おー、似合ってる。より知的に見えてカッコいいぞ」
もともと璃空は外見も中身も知的だが、眼鏡をかけるとさらに拍車掛かって見えた。ガリ勉と揶揄されるような部類ではなく、垢抜けているインテリ系、とでも言えばいいだろうか。
そう言ったら、きょとりと目を丸くしてから璃空は目元を少し赤くして笑った。
照れ臭そうなのに、これ以上ないってくらい嬉しそうに。
自分の心臓の辺りから、キュン、という音がした気がした。
作業に戻った後も横目で見た璃空は、今にも鼻歌が聞こえてきそうなほど上機嫌。そんな彼に時折心臓だか胸だかが変な音を鳴らす。
どうしちまったんだ俺は。
少し考えてみる。まあ確かに璃空は時々可愛い所がある。兄がいる、と前に言っていたから、甘えるとか感情を素直に表現するところもある。そう考えると、猫や犬の動画にキュンとして愛らしいなと思うのと、多分似たような感じな気がしてきた。
そう思うのに、いつまで経っても調子を崩したままの心臓。
とりあえず、自分を落ち着かせるために立ち上がる。
「俺ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「うん、いってらっしゃい」
「洸、微糖のコーヒー買ってきて」
「おー、いつものな。縁は?」
「じゃあカフェオレ、頼んでいい?」
「おけ~」
スマホと学生証だけ持って、図書館を出る。
四限終わりにはまだ高かった太陽は、随分と西に傾き始めていた。また頭にあの光景が掠めた。
「香村くん」
背中に掛けられた聞き慣れない声に、振り返る。
「え? ……山川さん?」
立っていたのは、山川想実やまかわあいみという同学年の女子学生だった。
すらりとした長身。パッツン。背中まである黒髪。ジーパンにTシャツという飾らない恰好を好んでいるけれど、いつも真っ赤なルージュをつけていて、それが凄く似合っている女子だった。
何故こんなに知っているかというと、彼女は良く目に入ってきたし、丁度数日前に講義のペアワークで話したからだった。
数日前に話しただけの俺に、彼女がどうして声を掛けてきたのか分からない。
「えっと、俺で合ってる?」
コクリと山川さんは頷いた。彼女の体の前で結ばれた指先が、不安げに動いているのが見える。緊張がこっちにも伝わってきて、自然と俺の背筋も伸びた。
「急に呼び止めてごめんなさい。少し話したいんだけど、いいかな?」
「あ、うん。いいよ」
ちょっと場所を移したい、といった山川さんに了承して、彼女についていくことにした。
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