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朝が来ても、太陽は昇らない。閉ざされた部屋に、もう外の時間は存在しなかった。
良規は、ゆっくりと目を覚ました。
ぼんやりとした視界の中に、美咲がいた。
手には、あの薬の瓶。
もう何日も、彼女の手によって眠らされ、起こされ、喋らされている。
『……おはよう』
かすれた声で呟くと、美咲は微笑んだ。
「おはよう、良規くん。今日は少し、調子がいいみたいね」
そう言って、彼の髪を優しく撫でた。
その手の温度だけが、現実の感触だった。
『ねぇ……俺、今日は……?』
「うん、今日は特別な日。君に、私から“最後のプレゼント”を用意したの」
美咲は、テーブルの上に何かを置いた。
それは……
銀色の注射器だった……。
中には、無色透明の液体。
その存在が何を意味するか、言葉で説明する必要はなかった。
良規は、しばらく黙ってそれを見つめ、ふっと笑った。
『……ねぇ、美咲さん。美咲さん、もう十分だよ。俺、もう壊れてる。美咲さん以外の名前も、顔も、外の世界も……全部、思い出せない……。』
「そうだね。良規くんは、もう完全に“私のモノ”」
『……うん。だから、終わらせよう。美咲さんも疲れたでしょ?俺は、もうずっとこのままでいたくない。』
彼の瞳は、驚くほど澄んでいた。
そこに、恐怖はなかった。
ただ……
“解放”を願う、純粋な眼差しがあった。
夜。
2人は並んでソファに座っていた。
テーブルの上には、注射器が二本。
美咲が言った。
「これで、本当に終わり……。」
『うん。』
「ねぇ、後悔してる?」
『……してない。美咲さんを愛したことも、ここに来たことも、壊れたことも、壊されたことも……全部、意味があった……。』
「私も……」
美咲は、ふとポケットから小さな鍵を取り出した。
「これ、良規くんの手錠の鍵。ずっと持ってた。でも……もう要らないよね?」
そして、それを床に投げ捨てた。
「良規くんは、もう縛られていない。でも……」
『……俺は、もう逃げる場所もないよ。
だって、ここが俺の”世界”だったから……。』
2人は見つめ合う。
言葉では言い表せない何かが、その瞳に交錯(こうさく)していた。
そして、美咲がそっと彼の手を取り、自分の注射器を差し出した。
「いっせーの、で……でいこうか」
『うん』
「……いっせーの……」
『で』
小さな痛みとともに、ふたりは同時に薬液を注射した。
数分後。
良規は、ぐらりと揺れて、美咲の肩にもたれた。
『ねぇ、美咲さん……ありがとう。こんな俺を……好きになってくれて……。』
「ありがとう、良規くん……追いかけてくれて、狂ってくれて、壊れてくれて、最後まで……愛してくれて……。」
2人の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
視界が滲む。
鼓動が遠くなる。
もう、名前すらどうでもよかった。
ただ、最後の瞬間まで……
『「……愛してる」』
その言葉だけが、互いの胸の奥に、深く刻まれていた。
数日後。
閑静な住宅街で異臭の通報があり、警察が一軒の家に踏み込んだ。
内部は防音仕様で、窓は目張りされ、空気は淀み、そして、ソファの上に寄り添うように倒れていた、2人の遺体。
顔は穏やかで、微笑んでいるようにすら見えた。
床には手錠の鍵と、破かれた恋人契約書。
そこには、こう書かれていた。
「離れるときは、どちらかが死ぬときだけ」
でも、2人は……
一緒に逝った……。
だから、誰も置いていかれなかった。
狂気も、愛も、死も、全てが2人を分かち難く結びつけていた。
彼らは、誰よりも不幸で、誰よりも幸福な恋人だったのかもしれない。