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狂気に駆られた公爵の剣が、鋭い風を切って私たちの元へ届く直前。
ベル様は、腰に佩いた剣を抜くことさえしなかった。
彼は嵐の中を突き進むような最小限の動きで、公爵の懐へと深く潜り込む。
「……最後まで見苦しい」
その冷徹な呟きと共に、ベル様は公爵の剣を振るう腕の関節を鋭く突き、瞬時にその自由を奪った。
さらに流れるような動作で、空いた反対の手を公爵の首筋へ───。
そこへ容赦のない、けれど正確無比な手刀を叩き込んだ。
「カハッ……」
短い息の音と共に、公爵の目は白を剥き、手から剣が滑り落ちる。
かつての優雅な面影はどこにもなく、彼は力なくその場に崩れ落ち、沈黙した。
ベル様は泥のように倒れた公爵に一瞥もくれず、すぐに背後にいた私へと振り返った。
その瞳には、すでに戦士の冷たさは消え、私を案じる熱い色が宿っている。
「リリア、大丈夫か。怪我はないか」
私の手を取り、震える指先を包み込んでくれる彼の手。
「ベル様……っ、ベル様こそ……!」
私は安堵と恐怖が混ざり合った涙を堪えながら、彼に縋りついた。
ベル様は私の肩を優しく抱き寄せ、周囲を警戒しながら短く告げた。
「とにかく、ここは危険だ。騎士団が到着する前に、場所を変えよう」
◆◇◆◇
屋敷に戻り、慌ただしく時間が過ぎていった。
ベル様は見えないところに少しばかり傷を負っていたため、まずは医務室で念入りな手当を受けた。
その間、私は落ち着かない気持ちで廊下を歩き回り、ようやく手当を終えた彼と共に、彼の私室へと戻ってきた。
扉が閉まり、屋敷の喧騒が遠ざかる。
広い部屋に、月明かりだけが青白く差し込んでいた。
私たちは吸い寄せられるように、ベッドの端に横に並んで腰を下ろした。
重い沈黙を破ったのは、ベル様だった。
「……全部、ゼノスから聞かされたんだ。イザベラが私に言った言葉も、すべては私を絶望させるための嘘だった、夫婦で手を組み、私を地に蹴落としたかったのだと」
彼は自嘲気味に、力なく笑った。
しかし、私は手当を終えたばかりの彼の手の甲に、自分の手をそっと重ねた。
「そんなのいいんです、いいんですよ……。ベル様が無事なら、今はそれだけでいいんです」
私がそう告げると、ベル様はゆっくりと、体ごと私の方へと向き直った。
窓から差し込む月光が、彼の端正な横顔を銀色に縁取る。
その瞳には、先ほどまでの冷徹な光ではなく、愛おしさが混ざった熱く、切実な色が宿っていた。
「……イザベラの言葉に揺さぶられ、君に酷い態度を取ってしまった。突き放すような真似をして、君を傷つけてしまい、本当にすまなかった」
そう言うと、ここに来たころと打って変わって、心を閉ざしていたはずの伯爵が私に向かって深く頭を下げたのだ。
そのあまりに素直で不器用な謝罪に、私の胸が熱くなる。
私は彼を許すどころか、愛おしさが溢れ出し、下げられたその黒髪を自然と優しく撫でていた。
「もう……本当に、不器用ですね、ベル様は」
私が困ったように微笑むと、ベル様はゆっくりと顔を上げた。
彼は一呼吸置き、溜め込んできた胸の内を吐き出すように語り始めた。
「……君の優しさが、ただの同情だと言われて…目の前が真っ暗になった。今だから素直に言うが、私は、いつしか君に惹かれていたんだ。だから、君に嫌われるどころか、興味すら持たれていなかった……ただの同情で優しくしてくれているだけなのだと考えたら、怖気付いてしまった」
彼の大きな手が、僅かに震えている。
「だから、自分から突き放すことでしか、この恐怖に耐えられなかったんだ。『君のため』なんて高潔なことを言ったが、結局は自分が傷つくのが怖かっただけだ。自分のことしか考えていない、私は最低な男なんだ」
その、震えるような告白を、私は最後まで言わせなかった。
遮るように、私は自分からベル様の広い背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめた。
「……私も、ベル様に惹かれていたんです。同情なんかじゃありません」
彼の背中に顔を埋め、私は確かな体温を感じながら言葉を紡ぐ。
「私は……ベル様は本当は不器用なだけで、誰よりも優しい方だと思っています。だから、離婚する気なんて微塵もありませんし……貴方がこれ以上、自分を責めぬように、一生支えたいのです。そこにあるのは、純粋な私の想いだけです。同情も、憐れみも、なにもありませんわ」
私の腕の中で、ベル様の体がびくりと震えた。
やがて、彼は恐る恐る、けれど壊れ物を扱うような優しさで
私の背中に腕を回し、強く抱きしめ返してくれた。
月明かりが二人の影を優しく床に落としている。
抱きしめ合う腕から伝わる体温が、これまでのどんな言葉よりも雄弁に、お互いの心が通じ合ったことを証明していた。
ベル様は私を抱きしめていた腕をゆっくりと解くと、決意を秘めた瞳で私を見つめ、静かにその場に片膝を突いた。
騎士が主君に忠誠を誓うような、あまりにも高潔で、けれど愛に満ちた仕草。
「ベル様……?」
「リリア。……今まで、キミをこの屋敷に縛り付けていたのは、冷え切った政略という名の契約だった」
彼は私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「だが、そんなものはもういらない。……私は、自分の意思でキミを求めている。私を叱り、笑わせ、隣で支えてくれる一人の女性として。……リリア、改めて私から申し込ませてくれ。私と、今度は契約ではなく、本物の夫婦になってはくれないか」
その言葉は、彼が長年被り続けてきた「鉄の仮面」を完全に粉砕する、真実の響きを持っていた。
私は溢れ出す涙を拭うこともせず、大きく頷いた。
「はい……喜んで。私の方こそ、これからもずっと貴方の隣にいさせてください」
ベル様は顔を上げると、今日一番の、子供のように純粋で晴れやかな笑みを浮かべた。