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#シリアス
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紫香楽
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その光景は、鋭利な破片となって私の胸に突き刺さった。
「今日も世話になったな」
廊下の向こう、煌様が他の給仕の女性に、穏やかな声で労いの言葉をかけていた。
私に向けるあの氷のような冷徹さはどこへ行ったのか。
彼女が差し出したお茶を、煌様はいつも通り、当たり前のように受け取っている。
私とだけ、目を合わせない。
私にだけ、言葉を惜しむ。
あの方にとって、私はもう「視界に入れる価値もない存在」になってしまったのだ。
(嫌われてしまった…っ?…いいや、最初から、夢を見ていただけだったのかもしれない)
胸の奥が、熱い何かに焼かれるように痛む。
私は逃げるように厨房の隅へと戻り、震える手で包丁を握りしめた。
溢れそうになる涙を必死にこらえ、まな板の上の野菜を無心に刻む。
トントン、という乾いた音だけが、今の私の虚しい心音の代わりだった。
視界が滲んで、手元が危うくなる。
「おい、雪。……顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
不意に、同僚の若い男子給仕が心配そうに覗き込んできた。
彼は、孤立している私を以前から気にかけてくれている、数少ない優しい人だ。
「あ…ううん、なんでもないの。少し、目が疲れただけで……」
「無理すんなよ。ほら、ちょっと休めって」
彼は励ますように、私の肩をポンと軽く叩いた。その何気ない、友人としての親愛の情。
けれど、その瞬間。
「──雪」
背後から、大気を凍らせるような、凄まじい威圧感を含んだ声が響いた。
振り返ると、そこには軍帽の庇を深く下げ、こちらを射抜くような鋭い視線で立つ煌様がいた。
その瞳に宿る熱は、心配などではなく、剥き出しの「怒り」に見えた。
「煌、様……っ」
私は慌てて彼から離れた。
けれど、煌様はなにも言わずに踵を返して去っていく。
軍靴の硬い音が、私の心を容赦なく踏みにじっていくようだった。
「っ……」
言葉が出なかった。
私がどんなに、あの方の背中を追いかけていたか。
あの方に拒絶されただけで、死ぬほど苦しんでいたか。
そんなことなど、今の煌様には届かないのだ。
私を「泥棒猫」と罵った同僚たちの言葉が、正しかったのだと証明されたような気がした。
「雪…本当に大丈夫か?」
「う、うん…。大丈夫」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ただ、心の距離が絶望的なまでに遠ざかっていく気がした。
差し伸べられた他人の優しささえも
煌様との「溝」を深める毒に変わってしまう。
私は、冷たくなった包丁を握り直すことしかできなかった。
もう、この恋には、出口なんてどこにも残されていないのかもしれない。