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未だかつて、こんなにも逃げ出したいと思った日はなかった。それでも功基の足はただ真っ直ぐに家へと向かっている。まるで、魔法にでもかけられたかのように。
恐る恐る開いたメッセージは邦和からの帰宅連絡で、ホテルを出てからは、何度か着信がある。
ただ夕食の有無を聞きたいだけかもしれないし、単なる帰宅時間の確認かもしれない。そんな『可能性』はいくらでも浮かぶのに、もしかしたら『終わり』を告げる連絡なのではと頭を掠めて、通話ボタンを押せないままでいた。
こんな公衆の面前で、泣き崩れるような事態は避けたい。
震える指でなんとか『帰宅途中。電車の中』とだけメッセージを送ると、数秒で『わかりました。お気をつけて』と返って来た。
いつも通りの文面に、微かな安堵を覚える。けれども一度生まれた不安は、じわりじわりと胸中を蝕んで、あっという間に思考を覆っていった。
(つっても、逃げられないよな……)
普段よりも大きく見える自宅の扉。その前で立ち竦んでいた功基は深呼吸と共に覚悟を決めると、ぐっと顔を上げノブに手をかけた。
だが自身でひねるよりも早く、別の力がノブを回した。扉が開かれる。
「……お帰りなさいませ、功基さん」
「っ、お、おう」
(っ、怒ってる)
いつだって無表情なその顔面が、今は瞬時に不機嫌が分かるほど歪められている。
入りたくない。だがいつまでも、ここに突っ立ってもいられない。
自身の家だというのに借りてきた猫のように背を丸めて、功基は靴を脱ぎ部屋へと歩を進めた。後方から響いたガチャリという施錠音に過剰に反応してしまうのは、やはり昴の所へ行った事を後ろめたく思っているからだろう。
(とりあえず、邦和の出方を伺うか)
そんな功基の思惑は、瞬時に破られた。
「……功基さん」
功基が鞄を下ろすなり、邦和が鋭い声を投げかける。
まだ座ってもいない。待ちきれないのだろう。
「……なんだよ」
「……何処に行ってたんですか」
「っ、どこでもいいだろ」
邦和の目を見れないまま言い捨てた功基の耳に、ギシリと床を踏みしめる音が届いた。
「……昴さんの所、ですよね」
「!?」
やけに近い声と視界に入った足先。その双方に顔を上げると、ギリギリの位置に邦和の顔が構えていた。
思わず一歩を下がると、邦和はその一歩を詰めてくる。
「……違うとは、言えませんよね。だって、紛うことなき事実ですから」
「っ、くに」
追い詰める言葉を体現するかのように、一歩一歩迫りくる邦和。功基は気圧されるまま、本能で後ずさった。
だがそれも、背に触れた堅い感触に呆気無く終わりを迎える。壁だ。
邦和を見上げる双眸に、驚愕と恐怖が混ざり合う。
「……なん、で」
「おかしいと思ったんです。昴さんが居ないのに、俺に連絡が来るなんて。なので連絡をくれた方に訊いてみたら、昴さんから俺にあたってみるよう助言されたと教えてくれました。その時点ではまだ確証はありませんでしたが……あまりに功基さんが連絡を返してくださらないので、昴さんに連絡したんです。功基さんが、来ていないかと。そしたら昴さんは、『本人に訊いてみたらどうですか』と。笑ってました。あれは、挑発です」
バンッと力強い両腕が壁を叩き、功基を閉じ込める。
剣呑に細まる双眸と、眉間に刻まれた憤怒。
「昴さんには気をつけてくださいと、忠告しましたよね? どうして呼ばれるまま行ってしまったんですか。それも……ホテルの、あの人の、部屋なんかに……っ」
言いたくない言葉を口にしたかのような、苦々しい吐露。初めて耳にした荒んだ口調からも、これが邦和の本心なのだとよくわかる。
でも、だからこそ、功基にはわからなかった。
どうしてコイツはこんなにも、怒っているのだろう? どうしてこんなにも、自分が責められているのだろう?
(……ああ、そうだった)
コイツはいつも、肝心なコトを言ってはくれない。
(オレには、知る必要すらないってコトかよ……っ!)
求めるのは、ただ邦和の望む『主人』としての振る舞い。
そこに功基の『意志』は、必要ないというのか。
「……なんなんだよ、お前」
功基の腹底が沸々と熱を持つ。
混ざり合い、真っ黒なマグマへと化した感情は、もう、ちっぽけな胸中だけでは留められなかった。
「どうして、お前はそーやって! オレを! オレだけを!」
「! 功基さんっ」
焦ったような邦和の声。
それでも止まらない激情に、功基は力いっぱい睨め上げた。
「オレは悪い事をしたなんて思ってねぇ! 昴さんもだ! あの人のがよっぽど、『オレ』を見てくれてた!」
「っ、昴さんと、何があったんですか」
「お前には関係ないだろ!」
「関係あります!」
声を荒げた邦和は自身でも無意識だったのか、はっとしたように瞠目した。
そして戸惑いに双眸を揺らすが、やはりそれ以上を言葉にしない。
「……どう関係あるんだよ」
「っ、それは」
功基が促すも、困惑を向けるだけで口を噤んでしまう。
(だから、そーゆートコだよ)
いっそ言ってくれればいいのに。余計な感情など抱かずに、ただ理想の『主人』として振る舞ってくれなければ困ると。
そうすれば僅かな未練すら残さず、全てを諦められるというのに――。
「……お前、まえにオレに『優しすぎる』って言ったろ。オレから言えば、お前のがよっぽどだよ」
言い切って、功基は邦和に笑顔を向けた。
上手く作れただろうか。残念ながら、とてつもなく不格好だったのだろう。
邦和が焦燥の表情で口を開いたが、その先を遮るようにハッキリとした声で、
「終わりだ」
絶句する邦和の目をしっかりと捉えて、功基はもう一度重ねた。
「もう、これ以上は無理だ。……疲れた」
言ってしまった。けれども胸中は、想像していたよりもずっと穏やかだ。
後悔も、哀しみも、何も感じない。ああ、終わったんだ。ただそう思うだけだった。
もはや定位置となっている壁際に置かれていた邦和の鞄を拾い上げ、置物のように固まっている持ち主に押し付ける。
「っ、いさ」
「帰ってくれ」
邦和の背を押し、玄関まで連れて行く。ここまでくれば、意図は伝わっているだろう。功基が手を放し踵を返すも、邦和は無言のまま、その場に立ち竦んでいる。
一瞬目端に映った、信じられないというような顔。
だが功基もこれ以上、何か言葉を発する気にもなれなかった。部屋へと戻り、姿が見えないよう扉を締めて、そこで気力が失せ扉にもたれたまま静かに待った。
どれくらいそうしていたのか。時計の針が進む音だけをボンヤリと追っている最中、玄関の扉が開かれる音がした。
そしてまた暫くの長い間があり、ガチャリと締まる音が届く。
(……終わっちまった)
何も訊けないまま、何も告げられないまま。
最悪だ。そう脳裏に掠めた瞬間に、頬に水滴が滑り落ちた。
全身から力が抜け、ズルズルと床にへたり込む。無感情に流れ始めた涙は開放の時を待っていたように、功基の視界を、頬を、埋め尽くしていった。
「っ、ふっ」
(おわりだ、ぜんぶ)
溢れ出る涙の理由もよくわからないまま、思考を放棄した功基はひとり、膝に顔を埋めた。
***