コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
鳴り響くアラームの音に、功基の意識が浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。横たわっていたベットから上半身を起こすと、胸の上から何かが転げ落ちた。太腿横の布団上にダイブしたのは、黒い犬のぬいぐるみ。幼気な瞳で功基をじっと見上げてくる。
どうやらいつもの癖で、抱きしめて眠っていたようだ。悪い夢を見ることもなく熟睡出来たのは、コイツのお陰かもしれない。
「……ありがとな」
ポフリと子犬の頭を撫でて、功基は立ち上がる。とりあえずシャワーを浴びないと。
脱衣場へと重い足を引きずっていくと、いつもの定位置に、キチンと畳まれたバスタオルが置かれていた。反射で邦和の面影が浮かび、意識が沈みそうになる。が、思考が暗雲に絡め取られる前に、突如鳴り響いた呼び鈴が無理矢理引っ張り上げた。
(っ、まさか)
この時間に尋ねてくる人物など、ひとりしかいない。だがその唯一には昨日、『終わり』を告げたばかりだ。
なら、誰が。混乱したまま立ちすくんでいると、再び呼び鈴が響き渡った。
そこでふと、功基は思い出した。そういえば邦和はまだ、この家の鍵を持っている。
もし扉の向こうの人物が邦和なら、このまま功基が開けずとも、その鍵を使って入ってこれるだろう。
緊張と期待に高鳴る心臓の音だけを聞きながら、功基は必死に息を潜めた。だが呼び鈴は再び鳴ることはなく、鍵が開く気配もない。
違ったのか。落胆に視界を下げた刹那、ドアノブが小さくカタリと鳴った。
次いで功基の携帯が受信を告げる。足音を潜ませてベットに放置していたそれを拾い上げると、邦和の名が表示されていた。
(……やっぱり、アイツだったのか)
あんな一方的に終わりを告げたというのに、また来てくれたのだと嬉しさを感じてしまう自分がいた。だが鍵を開けなかったという事実が、本当は顔も見たくないのだと暗に示されているようにも思え、功基の心臓がツクリと傷む。
それにしても、何の用だったのか。
冷静になってから、文句の一つや二つぶつけてやろうと思ったのかもしれない。もしかしたら、功基の『秘密』をネタに強請りをかけてくるつもりだったのかもしれない。
(いや、どっちもねーか)
そういった類をするような人間ではないと、悲しいかな、よくわかっている。
深く息を吸い込み、躊躇いがちに開いたメッセージを薄目で見ると、『ドアノブに朝食をかけておきました。良かったら、食べてください』と表示されていた。
そしてもう一通、『話がしたいです』と。
「……話し、か」
何を話すつもりなのだろうか。今になって、全てを吐露するつもりなのだろうか。
正直、邦和の思惑など、もうどうでも良かった。というより、これ以上かき乱さないで欲しかった。
バラバラに崩れたジグソーパズルのように、功基の心臓を覆うのは『無』だ。
もう何も考えたくはない。それでも床に伏せるでもなく、こうしていつもの『日常』をなぞろうとしているのは、なけなしの『理性』が細い糸でギリギリ繋ぎ止めているからだ。
もしも今この状態で、邦和の声を、顔を、息遣いを感じてしまったら、どうなってしまうのか。
そっと玄関へと歩を進め、覗き穴で外に誰もいないことを確認し、扉を慎重に開ける。メッセージの通り、ノブにはビニール袋がかかっていた。そろりと保護して中を覗き込むと、タッパーがふたつ入っている。
こんな時でもご丁寧なもんだと呆れつつも、やはり胸中には歓喜が溢れてくる。が、いかんせん昨夜から全く食欲が湧かない。
とりあえずしまっておくかと冷蔵庫を開けると、サランラップがかけられた皿が二つ目に飛び込んできた。昨晩の夕食用にと、邦和がしまっていたのだろう。
(……気づかなかった)
邦和はどんな気持ちで、これを用意していたのだろう。出迎えてきた時はあんなに怒っていたというのに。
一つだけわかるのは、少なくとも、まだ二人で食べるつもりはあったようだ。
「……っ」
昨晩限界まで出し尽くしたと思ったのに、再びこみ上げてきた感情が目奥から眼球を支配する。
功基は慌ててビニール袋を冷蔵庫に入れ、風呂場へと駆けこんだ。
***
「わーひっどい顔」
功基を見るなり、庸司は唖然と呟いた。しっかりと身支度は整えていたが、功基の瞼は腫れぼったく、目下もくぼんでいるように見える。
それに、何よりも生気がない。現に、睨みるけているつもりだろう二つの瞳は混濁としており、全く覇気がない。
そんな状態にも関わらず、こうして学校に出てきた精神力を褒めるべきだろうか。悩んだが、結局事情も訊けないまま午前の授業を終えた。
昼時になり、食券を買おうと功基が五百円玉を取り出すと、後ろから伸びてきた手が千円札を突っ込んだ。
「……庸司?」
「好きなの食べな。奢ってあげるから」
これが庸司の言っていた『慰め』なのだろうか。いちいち尋ねるのも億劫で、功基はそのままボタンを押した。普段はなかなか手の出せない、一番高い定食だ。
昨晩今朝と何も口にしてなかったので、食事を目の前にすれば腹も空くだろうと思っていた。だがそんな功基の予想に反して、美味しそうな匂いをかいでも食べたいとは思えなかった。
失恋した女の子が数日間殆ど食べれなかった、とは耳にした事はあっても、いや腹は空くだろうよとどこかで疑っていた功基は衝撃を受けた。
所謂、これがソレなのか。
だがせっかく庸司に奢ってもらったものだし、庸司にも「無理してでも食べなきゃダメだよ。なんなら『あーん』してあげようか」と脅されてしまっては、無理やり箸を動かすしかなかった。
少しずつでも飲み込んでしまえば吐き気もなく、案外すんなり入っていった。そういうものなのかと、功基は再び驚いた。
薄い靄がかかったような思考のまま、気付けば午後の授業も全て終わっていた。
庸司に連れられて来たのは馴染みのベンチではなく、生徒のいなくなった空き教室だった。