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其の日の私は本当に如何にかしていた_
あまりにもうるさく設定しすぎた目覚まし時計に吃驚し首を寝違え、へアアイロンを額に当て軽く火傷し、パンを喉に詰まらせ、違う種類の靴をいっぺんに履き、おまけに学校に提出する大事な書類も家に置きっぱなしにしたまま家を飛び出した。
もう一度言うがパンを喉に詰まらせながら。
勿論遅刻だ。
その勢いですっ転んで頭でも打って病院へ運ばれていればよかったのだ。
そうしていればあんな事に巻き込まれることも無かった_
*
時計が朝8時の半刻を回ったぐらいの頃、私は猛スピードで最寄りの駅を目指していた。 猶予は僅か、33分発を逃したら終わる、急げ急げ急げ急げ!!
そう言い聞かせながらラストスパートをかける。 もう目に駅の姿を捉えていた。
…筈だった。
現実は悲しいことに私が今目指しているのは駅ではなく猫の背中、だ。
しかも正確に言うと猫では無く、その猫が”咥えているポーチ”に用があるのだ。
私は寝起きの、あの大変な状態だったためにほとんどリュックのチャックを閉めないまま家を飛び出してしまった。
しかも最悪な事に私が使っている通学リュックは縦チャック式で、しっかり上までチャックを上げておかないと中身が側面からボロボロこぼれてしまうのだ。
という訳で猛ダッシュの衝撃でリュックからは私物が沢山転び出てしまった。
私が今持てる私物の中で最も大切な、自転車の鍵とICカードと家の鍵と学生証と御守りとが入った滅茶苦茶スーパー超重要アイテム、のポーチを先ず最初に救出しようとした次の瞬間、その猫がなんとかっさらって行ってしまったのだ。
なんという事だ!こんな時に!
と突っ込む暇もなく私はその猫を全力で追った。
憎々しいことにその猫は動きが俊敏だった。 いやまず猫がとてもすばしこいのは当たり前だが、そんなことを考え正す余裕もないくらい私は焦っていた。
猫を追い、追いかける内に知らない小道へと入り込んでいた。
しかしそれよりまずはポーチ_何とかしてあれを取り戻さなければ!
もう少しで、という時、猫が路地へと飛び込んだ。
私もそれを追う。
走ってきた道も振り返らず路地へ踏み込む。
もし路地へと入る前に観念していたら…
いや、あの時しっかりとリュックを閉めておけば。 しかしすでに遅かった。
私の目はもう猫の方には向けられていなかった。
*
_私は唖然として、奥で起こっている所業を眺めた。
呻き声が聞こえる。
声の主は中年の男だった。
信じられないことに、彼の身体は宙へと浮いていた。
否、吊るされていた。
空中へ伸びた、黒く硬い布のような物が男の首元に巻きついている。
首元から恐る恐る目線を下げていくともう1人男が見えた。黒外套を纏っている。 黒い布は彼の外套の裾から伸びている様だ。
吊るされている男がさらに呻き声を上げた。
つまり構図はこうだ。 男がもう1人の男の首を締め上げ吊るしている__ 明らかな加害者と被害者の図。 そして私はおそらく第1発見者。 但し全く不本意の。
目を凝らすと更に奥の方に何かが転がっているのが見える。
人間だ。
ぴくりとも動きを見せないそれらはごみの様に無造作に投げ出されていた。 それを背景として、目の前で更なる暴挙が行われようとしている。
あまりに非現実的な光景を前に、悲鳴すら上げられない。
ふと自身の足元に目を寄越すと、いつのまにか尻もちをついていた。
腰が抜けたのだ。
(不味い不味い不味い本当に不味い、早くここから逃げないと)
脳が危険信号を発している。
逃げろ!今すぐ!逃げろ!今すぐ!今すぐ今すぐ今すぐ!
頭の中でサイレンが鳴り響いているが、脚は震えるばかりで動かない。
今までこちらに背を向けていた黒衣の男が振り向いて云った。
「何を見ている、女」
男の顔が露になる 。 黒々とした両目が此方を凝視する。
路地の薄暗さも相まって気味悪さを際立たせていた。 男に纏わりつく冷たい空気の様なものを突如感じた。全身を悪寒が走り抜ける。
嗚呼、終わった……
「真逆見られるとはな、場所設定が悪かったか」
そう呟きながら黒衣の男は締め上げる力を強めた。
「随分と痛めつけたが到底吐きそうにもない」
締めあげられた男の顔がみるみる内に赤くなっていく。
呻き声が悲鳴へと変わる。
しかし喉を押さえ付けられている為思うように声が出ないのか、それは聞いていてとても悲痛なものだった。
「まず端から貴様等に用は無い、愚物は死すのみ」
悲鳴は途中で途切れた。 脱力した男の身体がごろりと地面に転がる。 あくまで男は無表情のままで此方をまた見据える。
「偶然通りかかった様だが」
男が続ける。
「此処での惨状を他に広められる訳にもいかぬ、おまけに顔まで見られたときた」
その男が次に何を云おうとするのか察してしまった。 どうにか逃げようと、地に着いた腰を上げようと試みた。
「よって貴様にも然る可き処置を」
男が云った。
察し通りの言葉だった。
それは恐らく死を意味している。
突如鳴らされた終わりの鐘に目の前が真っ暗になった。
この死神を前にどう藻掻けば助かるのか_ そんな案が頭に浮かぶはずもなく。 というか抵抗は不可能だろう。
嗚呼何という不幸、こんな映画みたいな台詞で殺す宣言されて人生終わりだなんて。なんでだよ本当に。
如何してこうなった? 先刻までは普通の日常を生きていた筈だった。 いやほんとにガチで何で?おかしいって、流石にこれは。
矢張り朝から何かがおかしかったのだ。ただ猫を追いかけていたら此処に辿り着いた。それだけなのに。
呆然として男を眺め返す。恐怖で涙が溢れてきた。 竦んだ脚は使い物にならない。 いかにも小説らしく表現するとしたらこうだ_茜音の目の前は絶望一色で塗りたくられていた。
男はそれ以上あれこれ思考する暇を与えてくれ無かった。 黒布が伸びるのが見える。
咄嗟に私は目を瞑った。これから刃がきっと私の身体を引き裂くだろう。刃が直撃するタイミングはもう直ぐだ。
今から自分は死ぬのだ。
数秒が経った。
ところが刃は身体を引き裂くどころか、私の身体に傷1つ付けていなかった。
攻撃がぱたりと止んだのを不思議に思い、私はこわごわと瞼を上げた。
驚く事に黒布の侵攻は目の前で止まっていた。私を引き裂くはずの其れはアスファルトに大きなヒビを作って地面に沈んでいる。
_何が起きた?私を殺す筈では?
訳が分からずフリーズしてしまう。
「一般人に手ェ出すなって云ってんだろ、芥川」
少し離れた所から声がした。
そちらに目を向けると、また1人男が歩いてきているところだった。 橙色の髪、肩にかけた外套コート。 そして何より目を引く黒い帽子。 芥川、というのは黒衣の男を指しているのだろうか。
「…中原さん」
矢張りそうらしい。 黒衣の男改め芥川、が少し不満げな表情で訊ねる。
「別の取引所で任務の筈では?」
「あァ、其れが思ってたより早めに片付いてな」
私は助かったのだろうか。
しかし恐怖が消える筈も無くひたすら呼吸が荒い。脚は震え、胸がバクバクと揺れている。
中原という男がこちらを見てこう云った。
「見た所アンタが無関係なのは解った。さっさと行きな」
どうやら私は助かった、らしい。