テラーノベル
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電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
聞き間違いではない。真帆の声だった。
私は当直室の固い椅子へ座り、呼吸を数えた。今すぐホテルへ向かい、二人の前へ踏み込みたい。怒鳴りたい。真帆の頬を打ち、遼介の顔へスマートフォンを投げつけたい。
けれど、病院を離れることはできない。
今夜は三人の妊婦を預かっている。一人は切迫早産で入院中。一人は陣痛が始まり、もう一人は妊娠高血圧症候群で経過観察中だった。
夫の不倫より、患者の命を優先する。
その責任感まで遼介に利用されている気がして、腹の奥が焼けた。
私はホテルの予約画面と通話時刻を保存し、メモへ事実だけを書き込んだ。
午後十一時十四分。遼介へ電話。本人は当直中と発言。背後から真帆の声。共有カードで二名分のホテル予約あり。
文字にしてしまうと、もう言い逃れのできない形になった。
見たくない。けれど、見ないふりをしても消えてはくれない。
「久世先生、分娩室をお願いします」
呼び出しに立ち上がる。
夜が明けるまで、私は妻ではなく産婦人科医でいた。
午前九時を過ぎた頃、赤ん坊の泣き声が分娩室へ響いた。母親は汗で額へ張りついた髪も気にせず、夫の手を握って泣いている。夫も何度も頷きながら、母子を交互に見つめていた。
胸の奥が鋭く痛んだ。
私も、遼介との子どもを望んだことがある。
結婚二年目にその話をした時、遼介は私の手を握って言った。
「専門医を取るまで待った方がいい。今妊娠したら、千紘が一番悔しいだろう。子どもは後からでも持てる」
あの時は、なんて理解のある夫なのだろうと思った。
だから私は避妊を続け、当直も学会発表も引き受けた。いつか出産する時に後悔しないよう、今のうちに経験を積もう。そう信じて頑張ってきたのに。
遼介は私には「まだ早い」と言いながら、親友との間に子どもを作った。
当直を終え、自宅へ戻ったのは午前十時半だった。
遼介の靴はない。莉央も仕事へ出ている。静まり返った部屋には、冷蔵庫の作動音だけが低く響いていた。
眠る気にはなれなかった。
共有カードの利用履歴を印刷し、家計関係の書類を保管している引き出しを開く。昨夜のホテル予約だけではない。遼介の説明と一致しない支出が、ほかにも残っている可能性がある。
日付順に領収書を確かめていくと、四か月前の結婚記念日に利用したレストランのものが出てきた。
二名分のコース料理と、ノンアルコールのスパークリングワイン。
その日は私に緊急手術が入り、予約をキャンセルした。遼介は「一人で帰った」と言っていた。
私は病院から何度も謝罪のメッセージを送り、翌日には埋め合わせとして新しいネクタイを贈った。
領収書の翌日には、宝飾店の明細があった。
商品番号を検索すると、細い鎖に小さな誕生石が付いたネックレスが表示される。石は、真帆の誕生月のものだった。
私が夫を一人にしたと気に病んでいた夜、遼介は真帆と食事をしていた。
椅子へ腰を下ろすと、脚の力が抜けた。消毒薬の匂いが染みついた服のまま、私は領収書を一枚ずつ撮影した。
昼前、玄関の鍵が開いた。
遼介が帰ってきた。白衣も仕事用の鞄も持っていない。シャツには、病院では嗅いだことのない甘い香りが残っている。
「まだ起きてたのか。寝た方がいい」
「当直、お疲れさま」
「ああ。救急が続いて大変だった」
「何人来たの?」
「三人くらい」
「どこの病院へ?」
遼介の手が止まった。
「何を言ってる」
「東央大学病院の昨夜の脳外科当直は、別の先生だった。あなたは関連病院へ呼ばれたの?」
「ああ。急に応援を頼まれた」
「このホテルに?」
私は印刷した予約確認書をテーブルへ置いた。
遼介の視線が日付と人数を往復する。
「後輩に頼まれて予約しただけだ」
「昨夜、電話の向こうで真帆がタオルを探していた」
「聞き間違いだ」
「真帆の声を、私は大学時代から聞いてる」
沈黙が落ちた。
キッチンの時計が秒を刻む音だけが続く。
「真帆との関係を認める?」
「関係なんてない」
「じゃあ、今から真帆に電話する」
スマートフォンを手に取ると、遼介が私の手首へ伸ばしかけた。触れる直前で止まり、苛立ったように息を吐く。
「待て。真帆ちゃんと一緒にいたことは認める」
「ホテルで?」
「話をしていただけだ。あいつは妊娠してから不安定で、夫にも本当のことを言えていない」
「本当のことって?」
「子どもの父親のことだ」
喉の奥が狭くなる。
「真帆のお腹の子は、あなたの子?」
「違う」
否定するまでに、数秒かかった。
「だったら、どうして父親のことを知ってるの」
「相談されたんだよ」
「私には相談できなくて、脳外科医のあなたには話せたのね」
「千紘は何でも大げさにするからだ」
大げさ。
夫と親友が二人でホテルへ泊まり、妊娠した子どもの父親について秘密を共有していた。それでも、傷ついた私の方が大げさなの?
そんなのおかしい。おかしいのに、遼介は本気でそう思っている顔をしていた。
今の会話を録音していなかったことを悔やんだ。証拠を残すと決めたはずなのに、まだ妻として、遼介の口から真実を聞けると期待していた。
「今日はここへ戻らない。今後の連絡は文章で残して」
「千紘、話し合おう」
「今のあなたの話は、後からいくらでも意味を変えられる」
「夫婦の会話を証拠扱いするのか」
「あなたが先に、夫婦の信頼を言い訳へ変えたのよ」
遼介の顔に初めて焦りが浮かんだ。
「弁護士へ相談する」
「そこまで大げさにするな」
「大げさかどうかは、私が決める」
寝室へ入り、数日分の着替えを鞄へ詰める。
クローゼットの上段にあったはずの遼介の旅行鞄がなくなっていた。ホテルへ持っていったのだろう。
代わりに、その奥へ押し込むようにして、小さな紙袋が置かれていた。
中には、先ほど商品番号を調べたものと同じネックレスが入っている。
細い鎖の下で、真帆の誕生石が光った。
添えられたカードには、遼介の字で書かれていた。
『真帆ちゃんへ。来年は三人で祝おう』
日付は、私たちの結婚記念日だった。
白波 灯
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鬼霧宗作
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コメント
1件
読み終えました。第六話、すごく重くて、でも一歩も引けない空気が全文に漲っていて、胸が締め付けられました。 特に刺さったのは、分娩室で赤ん坊が泣く場面です。千紘さんが医者として新しい命を取り上げながら、自分が望んだはずの未来が夫によって壊されていたと知る——その対比が本当に痛い。あの瞬間、彼女の中ではっきり何かが切れたんだろうなと感じました。 そして「今妊娠したら、千紘が一番悔しいだろう」という遼介の台詞。当時は理解ある言葉に聞こえたのに、今となっては“自分が都合よく千紘を遠ざけるための方便”だったと分かってしまう。このタイトル回収がえぐかったです。 千紘さんが感情に流されず、領収書を撮り、弁護士へ行くと言い放つ。その冷静な怒りが逆に痛々しくて、応援せずにはいられませんでした。続きが気になります。